能の”翁”は能にして能にあらずといわれていますが、
”翁”の舞のはじまりは、
翁がしずしずとすり足で舞台正面に進み出て深々と一礼すると、舞台右手の笛座前におかれた面の入った面箱のまえに座してはじまります。
そして突如、
とうとうたらりたらりら、とうとうたらりたらりら
と、地をはう呪文のような響きのある詞が謡い出されます。
地謡も同じように和して
とうとうたらりたらりら
と謡い出します。
不思議なことに、意味のわからない、とうとうたらりたらりら、という 謡いが心地よく耳に響くのです。
ヒシギという空気を切り裂くような、一際高い音を笛が発し、小鼔と太鼓が掛け声とともにテンポよく打ち鳴らされます。
すると、露払い役の千歳が、
鳴るは瀧の水 と言って立ち、 絶えずとうたり常にとうたり
と謡い、千歳の舞を舞いはじめます。
その舞が若者らしく颯爽としていて、その躍動する生命感に圧倒されます。
千歳が舞っている間に、白式尉(はくしきじょう)の面をつけた翁は、
総角(あげまき)やとんどや、と謡い出し、
座して居たれども、と立ち上がり、 参らうれんげりやとんどや、
と前に出ます。舞台正面で翁は、
ちはやぶる と謡い、両袖を左右に広げて扇を立て、
およそ千年の鶴は、と謡い出し、天下泰平、国土安穏、と祈祷の詞を唱えて、翁の舞を舞いはじめます。
翁の舞は静謐さのなかにも、おおらかさがあるように思われます。
左右に大きく広げられた袖は天と地と人を包みこむように感じられるのです。
翁は目付柱にて天を仰ぎ、天地人の足拍子を三度踏み、脇座にても地をみる心で三度足拍子を踏みます。そのドーンという足拍子の音が、木の舞台であることもあり、心地よく胸に響きます。生命の豊穣さを寿ぐ祈りが伝わってくるようであります。
舞の終わりに、
千秋万歳の喜びの舞なれば一舞まはう万歳樂、と謡い、両袖を胸に合わせて拝をなし、
万歳樂、万歳樂と謡い納めて、面をはずして箱に納め、橋懸より退いていきます。
そして狂言の三番叟の舞となります。
直面の三番叟の揉ノ段の舞は、笛のヒシギが鳴り響き、小鼓も太鼓も激しく打ち鳴らされる力強い舞です。その所作はリズミカルで種をまいているようであります。
その後、黒式尉(こくしきじょう)の面をつけて三番叟が舞う鈴ノ段の舞は、五穀豊穣を祈り、鈴をうち振るい、実った稲を刈り取るような所作をする独特の舞です。なお黒式尉の面をつけるのは農民の田の神を表しているという説があるそうです。
呪術的な舞は最高潮に達し終演をむかえるのです。
先に述べましたように、能の「翁」は能にして能にあらずといわれ、能の完成する室町時代より前の猿楽のなごりを残しているといわれます。それにしても能が完成した、世阿弥の生きた室町時代は疫病や戦乱、地震や飢饉などさまざまな災禍が国中を襲った時代だったいわれます。
わたしたちの生きている現代もコロナ禍というパンデミックに襲われ、世界も対立と分断に満ち、世界のいたるところで大災害に見舞われています。
そう思うと、あらためて翁の舞も千歳の舞も三番叟の舞も生きとし生けるものの豊穣さを寿ぎ、祈りに満ちているように見えます。だが、果たして、そうした願いが通じるものなのか、心もとなく思うのはわたしだけでしょうか。
わたしには、しずしずとすり足で退場していく翁の姿が、いのちある生の世界からどこか冥界に渡っていく姿に重なって見えるのです。
果たして人間はこの地球で永久に生き残ることができるのでしょうか。遠い将来、人間が地球にすめなくなり、銀河系を渡って他の惑星を求めるようなことにならないように祈りたいものです。
能の翁とは関係ありませんが、小面が美しいので画像を掲載します。
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