私が敬愛しております大阪歴史博物館・学芸員の中野朋子さまより大阪歴史博物館・研究紀要(第19号)掲載の論考をご恵送たまわりました。
そこには中野朋子さまが長年研究されてこられた藪明山の新しい知見・発見が記述されており、その成果に目をみはるとともに、とても嬉しく思いました。
中野朋子さまは、大阪歴史博物館「近代大阪職人図鑑」所収の「アートプロデューサーの先駆け 藪明山」において、
「藪明山(1853~1934)の日本における知名度は必ずしも高いとはいえないが、国外ことに欧米において”YABU MEIZAN”は明治日本の”SATSUMA”を牽引した作家のひとりとして高く評価されている」と述べ、
海外で藪明山が高く評価されている要因のひとつとして
極小の器胎に施された精巧な上絵付にあるが、その精巧な上絵付を実現するために、藪明山工房では凹版銅版による絵付技法を導入していたことに触れ、
藪明山は自身では絵付を行わず、工房経営者として独自の図案を考案、絵付の品質管理・効率化を進めた、先覚者的なアートプロデューではなかったかという画期的な論考を発表しておられます。
今回、論考「『陶画工』藪明山とその作品制作ー銅版を活用した下絵転写技法に関する一試論ー」において、
中野朋子さまは、新出史資料を得たこと、新たに器胎表面をデジタルカメラやマイクロスコープで撮影・観察を試みた結果、素地に黒インクを圧着した印刷紙圧着法だけでは説明できない釉薬の変質が確認されたという。
さらに、『陶業時報』のなかに京都の銅版師村上吉次郎(昇進堂)という人物がおり、彼が大阪の辻惣支店の高木文五郎と相談して新しい転写技法を開発したという知見を得て、
素地表面の釉薬が軽く溶解する程度のごく低温で焼成を行い、転写紙を素地の表面に貼り付け、低温の窯に入れてそのまま焼くことで、ごく細密な描線を確実に転写した可能性があるのではないか、
との従来の定説をくつがえす、新しい試論を提示し、今後実証実験を実施して検証を進めていきたいとされている。
さらに中野朋子さまは、藪明山作品の緩衝材として詰められた「反古紙」のなかにあった新出の「藪家文書」から、
嘉永元年(1848)、大阪生まれの銅版画家・銅版彫刻家の若林長英と藪明山との間に取引が存在していたことが判明した、という新しい発見があったことが書かれています。
これらは非常に重要な発見であり、今後のさらなる解明が待たれるところであります。
わたしは、このブログの記事「錦光山と藪明山」のなかでも触れていますが、錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥文四方瓶」(下の画像参照)の紅葉の図案と、ナセル・D・ハリリの「SPLENDORS OF MEIJI」に掲載されている藪明山の図案がよく似ていることから、藪明山と京都の絵師たちとの間にどのような関係があったのだろうかと大変関心を持っています。
河合りえ子さまも関心をお持ちのようで、錦光山と藪明山の作品の裏印を見てみたいとのことで、錦光山の一風変わった裏印を見つけて送ってくれました。
中野朋子さまも、
今回の論考のなかで「『藪明山ブランド』の制作は明山の工房内のみ行われていたわけではなく、京都・粟田口ほかへの『外注』にも支えられていた可能性がある」とし、詳細については別稿にて報告すると書かれています。
まさに大阪の藪明山と私の祖父錦光山宗兵衛が窯を開いていた京都・粟田口との間でどのような展開があったのか、大阪薩摩と京薩摩の見えない糸が繋がるのかどうか、考えるだけでもワクワクドキドキいたします。
なお、先程、粟田口という地名が出てきましたので、粟田口の窯元であった錦光山宗兵衛の作品「花鳥図薩摩大花瓶」も掲載いたします。
このところ、コロナ禍で変異株が急増しておりますので、中野朋子さまにはご自愛をお祈りいたしまして、研究の一層の進展を願ってやみません。首をながくしながらも、楽しみにお待ちしたいと思います。
藪明山「色絵金彩紅葉図花瓶」
YABU MEIZAN VASE 「SPLENDORS OF MIIJI」より
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