The Digital Archive of Kinkozan Sobei' pictures: family&factory.etc
kinkozan Sobei(Ⅵ)
将来の粟田焼・京薩摩研究の一助となることを願って立命館大学アートリサーチイセンター様に錦光山宗兵衛関係の古写真をデジタル・アーカイブ化していただきましたが、前回[Ⅰ]の錦光山工場の登り窯や絵付け、ロクロ師、画工、絵師などの古写真に続きまして今回の[Ⅱ]では、六代錦光山宗兵衛の油彩画、七代宗兵衛の若き日の写真や着物姿、緑綬褒章受章時の写真、家族写真や工場風景、葬儀の写真などをご紹介させていただきたいと思います。
まず冒頭の写真は六代錦光山宗兵衛(1823-1884)の肖像画です。わたしの拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」のなかで記しておりますように、六代宗兵衛は京都粟田焼の代々徳川将軍家御用御茶碗師の家に生れ、度重なる不幸のなかで、幕末から明治初期の激動の時代を生きた人物です。
わたしは、拙作のなかで「その肖像画を見ると、一点を見すえ、口を真一文字に結び、何かを貫き通すような強い意思を感じさせる厳しい表情をしている。その厳しい表情は、何度も苦難に遭いながらもそれに屈することなく耐えてきた男にしか醸し出すことができない表情のように思える。……明治という激動の時代に翻弄されながらも、新しい時代を切り拓くために、すさまじいまでの情熱と努力を傾けていったものと思われる」と書いています。
皆さまは、東京遷都により大口需要家を失い、苦心惨憺の末、細密描写の技法である「京薩摩」を開発して海外貿易に活路を見出していった六代宗兵衛のこの画像を見てどのように思われるのでしょうか。
Young kinkozan Sobei(Ⅶ)
次に上の2枚の写真は、わたしの祖父である七代錦光山宗兵衛(1868-1927)の若き日の写真です。七代宗兵衛は17歳で家督を相続し、この写真ではフロックコートを着て、口ヒゲをはやし、少しウエーブがかかった髪をしていたことがわかります。
七代宗兵衛は若くして京都陶磁器商工同業組合の組合長となり、明治28年の第4回内国勧業博覧会で京焼が著しく凋落しているのを目の当たりして、またシカゴ万博での京薩摩の最高峰ともいわれる色絵金襴手龍鳳凰文獅子紐飾壺が低評価であったことを受けて、副組合長の松風嘉定とともに改革の必要性を痛感し京都陶磁器試験場の設立に奔走します。
Kinkozan Sobei in Dresden at 1900
そして1900年のパリ万博の視察に行き、アール・ヌーヴォーの盛況に衝撃を受け、京都陶磁器試験場長の好漢・藤江永孝とともにヨーロッパ各地の窯業地をまわり、
意匠改革、窯業技術の近代化をさらに進めていくことになるのです。上の写真はヨーロッパ旅行中にドレスデンで撮った写真であります。
パリ万博に一緒に行った中沢岩太博士の誘いで京都に来る決意をした浅井忠画伯や錦光山商店の顧問になった宮永東山らとともに意匠研究団体「遊陶園」をつくり意匠改革を進める一方で、京都陶磁器試験場の藤江永孝らと釉薬技法の開発、設備の近代化に取り組み、後に帝室技芸員となる顧問の諏訪蘇山らの助けを借りながら、七代宗兵衛は改革を進め、京薩摩最大の窯元になり、数ケ月かけてつくる逸品の制作とともに大量の普及品を生産するにいたるのです。錦光山ほど多種多様な製品をつくった窯元はないといわれおり、また世界一の細密描写の色絵陶器である京薩摩はそのあまりに高度な絵付け技法のため再現不可能といわれおります。
ご参考までにLouis Lawrence氏の「SATSUMA」に掲載されております錦光山宗兵衛の作品の画像を添付いたします。錦光山工房の天才絵師・素山の絵付です。
Masterpiece of kinkozan Sobei(Ⅶ)from 「Masterpieces from the world's important collections」
Kinkozan Sobei(Ⅶ)
上の写真は拙作の表紙にも使いました七代宗兵衛の着物姿の写真および緑綬褒章を受章した際の写真であります。もしかしましたら、海外でmasterpieceといわれております錦光山の逸品を日本で展示する機会が訪れるかもしれません。それに向けて現在鋭意努力を続けておりますので、もし実現することになりましたら、皆さまにお知らせいたしますのでご高覧いただけましたら幸いでございます。
ご参考までに若いころの柳川民の写真を下に掲載いたしましょう。
またお民さんを登場させた以上は、私の父雄二の母である千恵の写真も掲載いたしましょう。
拙作でも書いておりますが、わたしの錦光山宗兵衛発見の旅の第2章は始まったばかりなのです。
Kinkozan Sobei(Ⅶ)’s mother Uno
次に家族写真をご紹介したいと思います。上の3枚の写真は、六代宗兵衛の妻宇野です。彼女は粟田の陶家に生れ、六代宗兵衛に嫁ぎ、七代宗兵衛を生み、夫に助言できるほど粟田の土に生きた女性です。自宅の座敷と庭園で撮った写真と思われます。
次の写真は七代宗兵衛の長女美代の写真です。
Kinkozan Sobei(Ⅶ)’s daugher Miyo
上の最後の写真は、美代と柳川たみさんの写真です。柳川たみさんは七代宗兵衛と深いかかわりがあるのですが、ここではあえて触れずに謎としておきたいと思います。
最後の家族写真です。
下の写真の中央が七代宗兵衛の妻八重、左が宇野、右が幼い頃の美代です。
Center: Kinkozan Sobei(Ⅶ)'s wife Yae
次は錦光山商店の屋敷の渡り廊下に座っている美代です。いまではその面影すらない当時の錦光山の屋敷をしのぶ数少ない写真です。
七代錦光山宗兵衛の長女美代さんを掲載しましたので、長男の誠一郎の写真も掲載いたしましょう。ここで掲載しておかないと記録に残らないからです。
下の写真は錦光山工場の荷造り場の写真です。
拙作のなかでわたしの父雄二の自伝的小説の一場面を引用してますので、その一部を紹介いたしましょう。
「荷造り場から巨大な登り窯が聳えているのが見えた。荷造り場では十数人の職人が商品の藁巻き作業や薄手の鉄板型抜のローマ字で、宛名入れの作業が行われていた。そして製品が外国向けの、鉄板でしっかりと締めつけられた大きな木箱に満載されて、次から次へと運び出されて行った……」
当時の錦光山工場の貴重な写真といえましょう。
敷地は約5000坪あり、そのなかには訪問外国人をもてなす東屋のある広い庭園もあったといわれています。
Kinkozan Factory
デジタルアーカイブの最後の写真は七代宗兵衛の葬儀の写真です。菩提寺は三条大橋からほど近い超勝寺であります。
Kinkozan Sobei(Ⅶ) funeral ceremony
今回のデジタルアーカイブは、2012年3月に現在京都女子大学准教授の前崎信也様のお声がけで、立命館大学アートリサーチイセンター様に作成していただいたものであり、前回[Ⅰ]も含めまして改めて前崎信也先生に感謝申し上げます。
なお前回にも書きましましたが、これらのデジタルアーカイブの写真の使用を希望する方は、写真を所蔵しているのはわたしですが、立命館大学アートリサーチイセンター様の了解をとることが必要であることを申し添えさせていただきます。
最後に父・錦光山雄二(1902-1998)の自伝的小説を引用しましたこともあり、父母のことを思い出しましたので、錦光山雄二の昭和17年当時の写真と母・泰子(1913-1997)の東京女子高等師範学校助手時代の写真(下が母・泰子)および今は亡き兄と姉、母の写真を掲載させていただきます。なお、これらはデジタルアーカイブ写真ではございません。
My father Kinkozan Yuuji at year 1942
My mother Yasuko(below)
My mother, elder brother Takeo and sister Mihoko
○©錦光山和雄allrightsreserved
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