錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

無隣庵(No Neiborfood Garden "Murinan" )の縁の地を巡る

 

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 3月のある日、わたしは、かつて竹林と松にかこまれた清水山のどこかに山県有朋が最初につくった無隣庵の名残りがあるのではないかと思って、吉田清水山を訪れた。

 吉田清水山界隈はのどかなところであった。わたしが山裾にある梅林のそばにたたずみ、たまたま通りかかった人に「清水山はこの山でしょうか、無隣庵の跡を見にきたのですが」と尋ねると、その方が「あそこにある東行庵のあるところに無隣庵があったのです」と答えられた。

 

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 わたしが驚いていると、その人が教えてくれた。

 幕末の頃、山県有朋は、最初の妻とも子と無隣庵で新婚生活を送っていたが、高杉晋作(号、東行)が元治元年(1864)長府の功山寺で決起し、長州藩を幕府恭順から討幕へ変えさせたあと、慶應3年(1867)に結核で亡くなり、明治2年に山県有朋は洋行するさいに、黒髪を断って尼となっていた晋作の愛人うのに、無隣庵を譲ったのだという。それほど山県は、奇兵隊で自分を軍監に引き揚げてくれてた高杉晋作に恩義を感じていたのだそうだ。

 さらに、その方は「よかったら、ご案内しましょう」とおっしゃってくれて、東行庵前の小路を上がって行く。そこに無隣庵の茶室があったのだという。いまはその茶室はないが、「無隣庵」の額がある新しい建物があった。そして、ありがたいことに、東行庵のなかを案内してくださり、東行やうのの位牌、うのが得度するさいに授かった白衣観音菩薩像、無隣庵の扁額などを見せていただいた。

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 そのあと、清水山を散策すると、山の中腹に高杉晋作の陶像があり、墓碑銘が刻まれていた。そのなかに、「奇兵隊の結成、功山寺決起、四境幕長戦争における僕の役目はいずれも遊撃による殊勲であったことを僭称してはばからず、それが詩人の夢を捨て、戦闘者となって果たした僕の仕事のすべてである」とあり、高杉晋作吉田松陰から狂の思想を授けられていたこと、また詩人の夢を持っていたことをはじめて知った。高杉の「面白きこともなき世におもしろく」という言葉は有名であるが、彼が自分のことを「西海一狂生」と呼んでいることは知らなかった。そういえば、山県有朋も幕末の頃、狂介と名乗っている。狂とは普通でないことを成し遂げるという意味のようだ。

 帰りがけに、東行庵の近くに山県有朋の無鄰菴の歌碑があった。

 となりなき世をかくれ家のうれしきは

 月と虫とにあひやとりして

 無隣庵は文字通り、となりのない庭であることを知った。

 

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 その後、長州藩支藩の長府毛利藩の城下町である長府へ向かった。野の草や桜、椿の咲く美しい練塀の道をいくと石垣の美しい長府毛利邸があった。

 

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 長府毛利邸には豪勢な松と馬酔木(あせび)が咲き誇る書院庭園と枯山水と滝のある庭があった。また中庭には黄梅が美しい。

 

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 さらに高杉晋作が元治元年12月決起して下関の萩藩新地会所を襲うことになる功山寺に向かった。この寺の書院には、文久3年(1863)八月の政変によって、都を追われた尊王攘夷派の公家7卿が潜居した居間があり、その前には鯉が泳ぐ池があったがどこか開放感がなく感じられた。

 

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 帰りに忌宮神社により、伊藤若冲が描くような雄鶏を見て、途中、元治元年の下関戦争で外国艦船に砲撃した前田砲台、壇ノ浦の戦いの史跡などを眺めながら、一路下関に向かう。

 

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 壇ノ浦の戦いで8歳で入水された平清盛の孫である安徳天皇を祀っている赤間神宮を参拝して、春帆楼へ向う。そこには日清講和記念館がある。余談ながら、山県有朋が、京都の木屋町二条の第二無隣庵を引き払い、南禅寺界隈の第三の無隣庵を庭師七代小川治兵衛(京都の和菓子店・平安殿のご主人の曾祖父に当たられる方)につくらせている最中の明治27年(1894)日清戦争の第一軍司令官として出征している。翌明治28年4月17日、春帆楼の二階で日清講和会議が開催され、台湾の割譲などが決まった下関条約が締結される。記念館内には日本全権として伊藤博文陸奥宗光、清国全権として李鴻章らが出席した講和会議の様子が再現されていた。

 

  壇ノ浦も悲しいが、日清戦争も悲惨な戦争であったらしい。

 

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