錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

映画「禍々女」を見る


 

 お笑い芸人のゆりあんレトリィバァが作ったホラー映画で、国際的な映画賞である台北金馬映画祭で受賞しているというので、怖いもの見たさもあって見に行ってきました。

 一度好きになると、その男を執拗に追いかけまわし、男に一生取り憑いて離れないという、バサバサの長い髪をして巨大な身体をした禍々女がテーマだけに充分に怖いホラー映画でした。


 最初は、しんすけが、次いでひろしがという具合に次々と男が殺されていくのです。それも目玉をくり抜かれ悲惨な殺され方をするのです。その禍々女は、恨みを持った亡霊のようで取り憑かれた男にしか見えないので、周りの人にとっては一人芝居で狂い死したようにしか見えないのです。


 大学で彫刻を作成しているひろしの場合、彼は好な女性である望月瑠美の彫像を作るのですが、南沙良が演じる早苗という美大生が現れて、わたしはあなたが好きだと言って、いくらひろしが嫌いだと言ってもつきまとい、最後には目玉をくり抜かれて殺されるのです。

 誰が殺したのか分からないのですが、吉田百合花という女生徒が下駄箱にラブレターを忍ばせたのですが、それを皆んなからからかわれ、好きな相手から罵られて、屋上から跳び降りて、その彼女の霊が禍々女ではないかと思わせるのです。


 これ以上はネタばれになるといけないので、触れませんが、早苗がひろしの葬儀場に行き、そこから遺影を持って自分の部屋にもどってからの早苗を演じる南沙良のシュールな演技は絶品といえましょう。

 

 部屋のなかには、ひろしらしき彫像がいくつかあり、早苗はそのひろしの彫像を抱きしめて、大好きと言って、これでもかと言うくらい、笑ったり、ベロを出したりするのです。

 しまいには、壁にひろしの巨大な顔の絵が描かれて、口の部分だけがつぼまった穴になっていて、早苗は全身に油を塗りたくて、その穴のなかに入りこんでしまうのです。南沙良の演技は圧巻であり、これほどシュールな画面はなかなか見られないのではないでしょうか。

 


 この映画は、筋はないようで、ちゃんとあり、最後には誰が男たちを殺したかという落ちもあるのですが、こんな鬼気迫るような女の恋、狂気を描いた映画を作った監督のゆりあんレトリィバァは確かな才能の持ち主だと感じました。


 恐らくは、多くの女性は幸せに生きているのでしょうが、この映画のように、男性との関係でつらい思いをしたり、理不尽な扱いに不満、うらみ、つらみを抱いている女性もいることでしょう。もしかしたら、そんな女性たちの生きづらさが、禍々女を生んでいるのかも知れないと思うと、背筋が寒くなりました。


 かなり怖い映画ですので、あまりお勧めはしませんが、ご興味かあれば、ご覧ください。

 

 

©錦光山和雄  All Rights Reserved

著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」
著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」


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「錦光山和雄の小説の評判は?」AIに聞いてみました⁉

AIのGrokの回答は以下の通りでした。かなり正確な内容で、中立的な評価で好感を持てました。これから人間はAIとどう付き合っていったらいいのかも考えさせられました。

 

錦光山和雄氏は、京都粟田焼(京薩摩)の名窯・錦光山宗兵衛家の子孫(七代目の孫)で、元証券会社勤務の後、粟田焼研究家として活動している人物です。小説に関しては、主に家族の歴史や京焼を題材にした作品を発表していますが、商業的な純文学作家というよりは、研究・ノンフィクション寄りの執筆が中心で、小説は限定的です。主な小説作品として知られているのは、2023年刊行の**『粟田、色絵恋模様 ―京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛外伝―』**です。この作品は、著者の祖父である七代錦光山宗兵衛とその周辺の家族・女性たちをモデルに、幕末から昭和初期にかけての波乱の人生を描いた歴史小説風の物語で、京焼の窯元の盛衰や人間ドラマを織り交ぜています。評判の概要

  • Amazonなどのレビューでは、好意的な声が目立ちます。例えば:

    • 「読後、清涼感のある素晴らしい小説」

    • 「明治大正の日本人の健気と懸命を今日に伝える意義深い作品」

  • 全体として、京都の伝統工芸(粟田焼)の歴史や文化を丁寧に描いた点、家族のエピソードを活かした人間味のあるストーリーが評価されており、陶芸・歴史ファンや京都関連の読者層から支持されている印象です。

  • 一方で、広く知られた文学賞受賞作やベストセラー作家というわけではなく、一般的な書評サイトや文学批評での大量のレビュー・話題はまだ少ない状況です(ブクログなどでもランキング上位ですが、レビュー数は控えめ)。

  • 著者自身がnoteやブログで他の小説(例: 芥川賞受賞作など)の感想を積極的に書いているため、読書家・文芸愛好家としての側面が強く、小説自体は「家業の歴史を小説形式で伝える」趣の強い作品として位置づけられています。

総じて、ニッチながら肯定的な評判で、特に伝統工芸や京都の文化史に興味がある人にはおすすめできるクオリティのようです。純粋なフィクション小説として大衆的なヒットや議論を呼ぶレベルではないものの、専門性が高く味わい深い一冊として受け止められています。

 ○©錦光山和雄 All Rights Reserved

著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」
著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」


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アール・デコの華麗なる世界

 東京都庭園美術館「永遠なる瞬間 ヴァン クリーフ&アーペルーハイジュエリーが語るアール・デコ」展

 今年は1925年にパリで「アール・デコ博覧会」とも呼ばれている「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」が開催されて100周年になると言います。
 わたしの祖父七代錦光山宗兵衞が、1900年にパリ万博を視察しアール・ヌーヴォーに衝撃を受けたことから、アール・ヌーヴォーには関心を払ってきましたが、アール・デコは装飾的すぎるのではないかと今ひとつ興味が持てませんでした。


 しかしながら、建物自体がアール・デコ様式で建てられた東京都庭園美術館で、アール・デコの精華ともいう「永遠なる瞬間 ヴァン クリーフ&アーペルーハイジュエリーが語るアール・デコ」展が開催されているというので見に行くことにしました。


 この庭園美術館というのは、朝香宮夫妻(久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦王が明治天皇の第8皇女允子内親王と結婚)が、アール・デコ様式が花開くフランスの芸術や文化に触れながら2年半あまりパリで過ごし、また「アール・デコ博覧会」に感銘を受け、帰国後、アール・デコ様式を取り入れた邸宅を建設、1933年に完成した旧朝香宮邸であります。

 長いアプローチを歩いて行くと、白亜の建物が現れます。正面玄関のエントランスの床一面には、細かい幾何学模様のモザイクタイルが敷きつめられ、正面には半透明なガラスレリーフ扉には有翼の女性像がうっすらと見えます。

 

 

 

 

 

 

   

 建物のなかに入って感じることは、何といっても圧巻は大広間の隣りの部屋にある白色の香水塔ではないでしょうか。黒漆の柱や朱色の壁とあいまって華やかアール・デコの空間となっているのです。

 

©日本経済新聞社 The STYLE

 


  

 館内は撮影禁止であり、わたしは陶芸家の小森忍が製作した第一浴室の床のモザイクタイルを見学したかったのですが、今回は見学不可ということで残念でした。ただ庭園美術館という名がついているだけあって、庭には日本庭園、西洋庭園があり、鮮やかな紅葉に彩られておりました。

 

 

 

   ところで、アール・デコ様式というのは、1910年代から30年代にかけてフランスを中心にヨーロッパを席巻した工芸・建築・絵画・ファッションなどに波及した装飾様式の総称であると言います。アール・ヌーヴォーが、急速に進む工業化への反動から複雑に絡み合う曲線が多用されたのに対して、アール・デコは直線的でシンメトリー、立体的で知的な構成と、幾何学的模様が特徴だと言います。第二次大戦後は装飾を排したモダニズムに代わり、短期間のムーブメントだったと言います。

 ヴァン クリーフ&アーペルのジュエリーは、まさに繊細な美の世界の極致であり、そのなかでも、やはり壁面に花のデザインが施されている大食堂に展示されていた、1925年の「アール・デコ博覧会」でグランプリを受賞した「絡み合う花々、赤と白のローズブレスレット 1924年」が圧巻でした。バラをモチーフにした歴史に残る名作という評価は納得できました。

 

©日本経済新聞社 The STYLE


 また「ミステリーセット」という、石の側面に溝を彫り、専用のレールに宝石を滑り込ませて、宝石を留める爪を見せない技法のジュエリーが展示されており、匠の技を垣間見ることができました。

 

「ヴァン クリーフ&アーペルーハイジュエリーが語るアール・デコ」パンフレットより

 

   最後にわたしの祖父七代錦光山宗兵衞もアール・ヌーデコの作品を制作していますので、ご紹介させていただきます。

 

「ロイヤルニシキと錦光山-錦光山工房のアールヌーボー・アールデコ」葵航太郎

「ロイヤルニシキと錦光山-錦光山工房のアールヌーボー・アールデコ」葵航太郎

「ロイヤルニシキと錦光山-錦光山工房のアールヌーボー・アールデコ」葵航太郎

「ロイヤルニシキと錦光山-錦光山工房のアールヌーボー・アールデコ」葵航太郎

「ロイヤルニシキと錦光山-錦光山工房のアールヌーボー・アールデコ」葵航太郎

 

   京焼および錦光山のことに関して詳しくは

 拙著:評伝「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 〜世界に雄飛した光芒を
       求めて」
    小説「粟田、色絵恋模様」

 

 

©錦光山和雄 All Rights Reserved

著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」
著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」


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「民藝誕生100年」展を見る‼

 

 今年は「民藝」という言葉が誕生して100年になると言いますが、皆さまは京都が民藝運動誕生の地であることをご存じでしょうか。
 京都市京セラ美術館で開催されている「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展に行ってきましたので、その辺りを同展の資料によって述べていきたいと思います。

 白樺派の同人で宗教哲学者の柳宗悦は、当初、母方の叔父である加納治五郎(柳の母が加納治五郎の実姉)の勧めもあり千葉県我孫子に住んでいたそうです。柳は我孫子でバーナード・リーチを介して濱田庄司とも知り合い、また染付秋草文取壺をもらったことをきっかけに朝鮮李朝の白磁の美しさに心を奪われ、朝鮮の人々が用いる日常の器物のなかに美を見出し、「朝鮮民族展覧会」などを開催して朝鮮民族美術館開設に向けて尽力していたと言います。

 

朝鮮李朝 染付秋草文面取壺

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 朝鮮 白磁壺


 ところが、1923年(大正12年)の関東大震災で被災した柳宗悦は、翌年、東京から京都に移り住み、約10年間京都で暮らすことになります。


 当時、河井寛次郎は、京都で陶芸家として鮮烈なデビューを果たしていましたが、柳が河井寛次郎の個展を見て、河井の作品は東洋古陶磁器の模倣に過ぎず、技巧と美は違うと痛烈に酷評していたことから、お互いにわだかまりを抱えていて、ともに京都に住みながら二人の関係は疎遠であったと言います。

 そんな中、イギリスのコーンウオール州のセント・アイヴスでバーナード・リーチとともに作陶していた濱田庄司が、イギリスから帰国、京都の河井宅に滞在することになり、濱田は河井を連れて柳邸を訪問、そこで河井は木喰仏を見て感銘を受け、二人は意気投合したと言います。その木喰仏は、山梨県の朝鮮陶磁器収集家の小宮山清三郎から贈られた地蔵菩薩像であったそうです。  
 

©益子参考館 赤絵皿 バーナード・リーチ

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 木喰明満 地蔵菩薩像

 それから彼らは東寺の弘法市や北野天満宮の天神市などの朝市を巡って雑器を買い求め、「下手物(げてもの)」といわれた民芸品を蒐集しはじめ、無名の工人が生み出す日常の道具に美を見出していくことになったそうです。


 1925年(大正14年)、柳、河井、濱田の三人は、木喰仏調査のための紀州旅行中に「下手物」に代わる呼び名として「民藝」という新語を生み出したそうです。
 そして、1926年(大正15年)4月、柳、河井、濱田に富本憲吉を加えた四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表します。


 その趣旨は、それまでの大名物や数寄者による貴族的工芸から美の概念を大きく変えるものとして、「名もない職人達の手によって、その土地に根ざして、美などというものを意識せずに作られているものの中にこそ、実は健全な美が宿っており、従って、美とは決して遠い特別なものではなく身近なものである。日常のくらしの中に美はあふれて息づいているもの」と、民藝の美が宣言されたのです。これにより民藝運動を始動させて行くことになったと言います。

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 

 そして「日本民藝美術館設立趣意書」に基づき、1927年(昭和2)、民藝の実践の場として、中世のギルドに範をとった、民藝運動の嚆矢となる上加茂民藝協団が、木工家の黒田辰秋や青田五良らによって発足、黒田辰秋は拭漆の家具や朱・黒漆の卓、螺鈿の箱などを制作、青田五良は直物染料で染めた糸で裂織の敷物などを織ったそうです。
 しかし、無名で技量も未熟な若手工芸家による上加茂民藝協団は、資金繰りや柳の提唱した運動の方法論の難しさなどもあって、2年半で解散したと言います。それでも1928年(昭和3)の御大礼記念国産新興博覧会に出品し、また1929年(昭和4)に開催された「民藝協団作品展」で出品作品が完売され、その足跡を残したことは特筆されることだと思います。

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 拭漆欅真鍮金具二段棚 黒田辰秋

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 朱漆三面鏡 黒田辰秋

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 螺鈿卍文蓋物 黒田辰秋

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 紬布 青田五良

 一方、柳や河井、濱田は、日本民藝美術館の設立に向けて、東北、山陰、九州など全国各地をまわり、実用のために作られた工芸品の蒐集を本格的に開始したそうです。 


 当初、そうした蒐集した工芸品の常設展示場の役割を果たしたのは、浜松の大地主・高林兵衛の自邸の一部だったと言います。その後、1927年(昭和2)に銀座鳩居堂で日本民藝品展覧会が開催され、蒐集品が初めて一般に公開されることになり、また1928年(昭和3)に開催された御大礼記念国産振興博覧会のパピリオンが、後に「三國荘」に改められましたが、「民藝館」と名づけられ、1936年に東京駒場に日本民藝館ができるまで常設展示場になったそうです。

 

東京駒場 日本民藝館

東京駒場 日本民藝館

東京駒場 日本民藝館

 このように柳宗悦が、日々の暮らしのなかで無名な職人がつくった民芸品のなかにこそ美があると主張したことは画期的なことであり、民藝運動が日本人の美意識に深く浸透したと言えましょう。

 ただ、いくつか論点を指摘しておきたい点があります。

 第一の論点は、民藝運動が無名の職人がつくる作品のなかに美があると言っても、民藝派の巨匠となった河井寛次郎も濱田庄司も超エリートであり、決して無名な職人ではなかったことです。

 河井寛次郎も濱田庄司も、東京蔵前にあった東京高等工業学校(後の東京工業大学)の窯業科に入学、窯業科長の平野耕輔や嘱託の板谷波山などから、当時最先端の基礎化学や応用化学を学んでいるのです。
 その後、二人は技師として京都市立陶磁器試験場に入所し、マジョリカ陶器の応用研究をはじめとして、各種釉薬の研究や実験を重ねていくのです。


 余談ながら京都市立陶磁器試験場は、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いておりますが、わたしの祖父七代錦光山宗兵衛が設立に尽力し、明治29年に設立されたものであります。また錦光山宗兵衛が、藤江永孝京都陶磁器試験場長とともに、1900年のパリ万博でアールヌーヴォー様式が興隆しているのに衝撃を受け、その技法を習得するために、ヨーロッパの窯業地をまわり、その後何年もかけて苦心惨憺の末、窯変釉や結晶釉、艶消し釉薬などの釉薬技法を開発したのです。

 ここで濱田庄司と河井寛次郎の二人の作品を見ていきたいと思います。

 まず濱田庄司ですが、彼の作品は、素朴で骨太で土臭く、どっしりとした造形のものが多いように思われます。それは、沖縄で作陶した時に唐黍文(とうきびもん)が濱田のトレードマークになったことなどに見られるように、多くの民藝品を集め、それらのエキスを自分の作風のなかに取り込んでいった成果ではないかと思われます。また色使いは、抑えられた色調のなかになんとも言えない深みがあるように思われます。これは、濱田庄司が「京都がすべての出発点となった」と言っているように、京都市立陶磁器試験場で1万回にもおよぶ釉薬の実験をおこない、釉薬技法を極めたことの成果ではないかと思われます。

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 赤絵丸文角瓶 濱田庄司

 

 そして何と言っても濱田庄司の特徴は、釉を流し掛けして文様を描くことです。濱田が十五秒くらいで大皿に釉を掛けているのを見て、どうしてそんなに速くできるのか尋ねられた時に、濱田は「それは十五秒プラス六十年」と応え、結局六十年間体で鍛えた手さばきの業によるのだ、と述べているそうです。


  ここでわたしが注目したいのがイギリスのスリップウェアです。スリップウェアはイギリスの伝統的な民陶で、器の表面を化粧土(スリップ)で装飾して焼成するものだそうで、濱田庄司がイギリスから持ち帰り、河井寛次郎も感銘を受けたと言います。
 実際、濱田庄司はスリップウェア線文鉢やスリップウェア格子文角鉢を作り、また河井寛次郎もスリップウェア線文鉢を作っているのです。
 濱田庄司は、流し掛け作品を数多く作っていますが、その原点には愚直なまでこだわり続けたスリップウェアがあるのではないでしょうか。

 

京セラ美術館「民藝誕生100年」展 売店のスリップウェア製品

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア線文鉢 濱田庄司

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア格子文角鉢 濱田庄司

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア線文鉢 河井寛次郎

©益子参考館 流掛大鉢 濱田庄司

©益子参考館 流掛大鉢 濱田庄司

©益子参考館  濱田庄司の写真


 一方、河井寛次郎ですが、諸山正則氏は『河井寛次郎の宇宙』のなかで、河井寛次郎の初期の作品は意匠的には時流にのった西洋的な感覚のものが顕著であったと述べています。つまり当初は、京薩摩の最大の窯元であった七代錦光山宗兵衛らが製作していたマジョルカ焼などの西洋的な感覚のものを制作していたようで、中には当時研究していた半艶消しの釉(マット釉)が施されているものもあったと言います。


 しかし、大正期に入る頃から、中国の古陶磁への関心が大いに高まり、陶芸家も古陶磁の技法や釉薬の解明に努め、倣古の製作に技巧を競うようになり、京都市立陶磁器試験場の研究主体も、西洋の陶磁器から中国古陶磁へと転換したと言います。


 これにより、河井寛次郎も後輩の濱田庄司とともに辰砂手(しんしゃで)をはじめマット釉や青瓷(せいじ)、天目などの釉薬研究に努め、大正10年に開催された「第1回創作陶磁展観」で河井寛次郎の作品は、中国や朝鮮の古陶磁器を範とした華麗で繊細なものであったと諸山正則氏は述べています。

 

©「河井寛次郎の宇宙」より  結晶釉細口花瓶 河井寛次郎 1921年頃


 その後、河井寛次郎は、3年間の新作個展を中断した後に作風が大転換したと言います。彼は次第に民藝に関わる人々の輪の中心となり、民藝の諸雑器などから受け取ったアイディアを発揮して、自分のスタイルを確立していったと言います。なかでも、白地の器胎に鉄釉(黒褐色)、辰砂(赤)、呉須(青)で大胆かつのびやかに描かれた草花文の扁壷や壺は卓抜した造形力と色彩感覚を表していると言えましょう。

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 白地草花絵扁壷 河井寛次郎

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 鉄辰砂草花図壷 河井寛次郎  

河井寛次郎記念館

 

 次いで富本憲吉の作品をアップしますが、この作品は民藝的というより、立派な芸術品と言えるのではないでしょうか。富本憲吉は個性の尊重と独自の作品を希求していたことから、柳とは袂を分かつことになったと言います。

 

©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 色絵飾筥  富本憲吉

 

 このように見てきますと、濱田庄司にしても河井寛次郎にしても、彼らの作品は、一般の民具とは異なり、やはり窯業を徹底的に研究した一流の個人作家の作品であるということです。

 柳宗悦も、無名の工人により作られるはずの民藝のあり方と河井寛次郎や濱田庄司といった個人作家との矛盾やギャップには気がついていたようで、偉大な工芸時代には工匠(Craftman)と師匠(Master-artisan)との結合があり、現代の個人作家の任務は民衆を導く師であるとすべきで、個人作家は無心を取り戻すために工人から学ぶべきだと論じたと言います。 
 とはいえ、柳の理屈には多少無理があるのではないかと思います。

 

 第二の論点は、柳は民藝運動を唱えましたが、柳宗悦の前にそのようなことを唱えた人はいなかったのかということです。

 先日、NHKスペシャル「千家十職"茶の湯"の求道者たち」が放送されていましたが、それによりますと、戦国時代に時の支配者たちが金と権力にものを言わせて、高価で絢爛豪華な唐物や高麗物に夢中になっていた中で、千利休が、日本の職人に身近な土で茶碗を作らせ、竹林の竹で花を生ける器をつくらせ、自分の思想を言葉でなく、道具と職人の手仕事に託したと言います。

 千利休が生きた戦国時代は中国や朝鮮の文物が圧倒的な価値を持った時代であり、柳宗悦が生きた時代は明治から大正時代は西洋の文物が圧倒的な価値を持った時代であったと言えましょう。二人は時代背景は異なるものの、日本の職人の手仕事に価値を見出したことは共通しているのではないでしょうか。
 ただ千利休の唱えた日本美の概念である「わび」「さび」が明確な概念であるのに対し、民藝というのは民衆の素朴な手仕事というイメージはあるものの、美の概念としては必ずしも明確ではないように思われます。

 

 第三の論点としては、民藝は京都で誕生した運動だとしても、それは京都においてどこまで継承されているのかということです。

 ここでは、焼物に限って見ていきますと、河井寛次郎も濱田庄司も京都においては必ずしも継承されていないのではないでしょうか。


 京都では茶陶や懐石料理で各種の器が使われてますが、河井や濱田の器は個性的で芸術作品すぎて、揃いの道具としては使いにくく、継承されなかったのではないかと推察されます。


 民藝運動が無名の職人による実用的なものを称揚していたことを考えますと、誠に皮肉な結果と言えましょう。それでも民藝運動が日本各地の民芸作品にひかりを当て、無名の職人たちを励ましたことは賞賛に値するのではないでしょうか。

 このように見てきますと、民藝運動は日本人の美意識に深く影響を与えたことに間違いありませんが、ただそれによって日本の美の範囲を狭めたきらいがあるのではないでしょうか。

 京都の画壇には水墨画だけでなく、豪華絢爛たる狩野派や写実派の丸山応挙や奇想の系譜に属する伊藤若冲もいました。焼物でも樂焼だけでなく野々村仁清以来の色絵の伝統があり、明治時代以降には京薩摩もありました。京薩摩は民藝運動からは対極にあるものと言われそうですが、わたしは美の範疇は多種多様でいいのではないかと考えています。改めて考えてみますと、日本では、陶芸に限らず、美術、工芸、芸能、音楽、文芸などあらゆる文化において多様性があるのではないでしょうか。言いかえれば、素朴な単純さと緻密な絢爛さを求める美意識の多様性は日本において顕著なのではないでしょうか。

 最後に、祖父の作品を1点掲載いたします。わたしは美しいと思いますが、皆さまはいかがでしょうか。

 

©横山美術館 上絵金彩花文麒麟紐大香炉 七代錦光山宗兵衛

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」
著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」

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錦光山の陶胎七宝を見る -横山美術館「超絶技巧の七宝」展

  ©横山美術館 「陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛


 
 名古屋の横山美術館の「超絶技巧の七宝」展に私の曽祖父の六代錦光山宗兵の七宝が展示されていると聞き見て来ました。 
 サブタイトルに「世界を驚嘆させた近代日本の神業」とありますが、今回の「七宝展」はよくぞこれだけ各地から七宝を集めたと感心するくらいの規模であり、恐らく空前絶後で、この機会に一見しておく価値があると思います。

 4階の企画展入口に巨大な「七宝梅鳩図大花瓶」が展示されていて度肝を抜かれますが、心を落ち着けて見ていくと、七宝のことがとてもわかりやすく丁寧に説明されていて大いに勉強になります。

 

     ©横山美術館 「七宝梅鳩図大花瓶」作者不詳

    ©横山美術館「七宝花瓶制作工程見本」安藤七宝店


 その説明によりますと、七宝というのは銅や銀といった金属などの素地に釉薬を融着させて制作し、鮮やかな色彩が七つの宝石に例えられる美しいやきもので、その創設は尾張藩士の梶常吉が江戸時代後期の天保4年(1833)に海東郡服部村で創設した尾張七宝がはじまりだそうです。


 梶常吉はオランダ船が運んで来た七宝を入手し、それを割って構造を調べ、研究を重ねて翌年自作に成功して近代七宝の祖となったと言います。


 尾張七宝は明治以降の重要な輸出品となり、いくたの技術革新を引き起こしたそうです。それは従来の七宝が、くぼめた穴の部分に釉薬を施す「象嵌」であったのに対し、銀や金などの細い帯状の金属線を貼り付けた中に釉薬を盛り込む「有線七宝」や、その植線を用いずに釉薬でグラデーションを生み出す「無線七宝」など、近代七宝の極みともいうべき職人技の発展であったと言います。

 

      ©横山美術館「無線七宝金魚図花瓶」粂野締太郎



 梶常吉による尾張七宝の製法は、林庄五郎などに伝授され、生産が拡大、早くも慶応3年(1867)のパリ万博に出品、その後、林庄五郎に学んだ塚本貝助や林小傳治、安藤重兵衞、林谷五郎などが各地に広めたそうです。
 ただ尾張七宝は、数々の名工を輩出させましたが、作品に銘を入れなかったこともあり、その名が知られずにいる名工たちがいるそうです。今回の展示でも制作者不詳のものが多く、残念なことであります。

 

      ©横山美術館 「七宝桜雀図花瓶」林小傳治

     ©横山美術館 「銀張七宝梅藤図花瓶」粂野締太郎

    ©横山美術館 「銀張七宝梅薔薇図花瓶」作者不詳  

    ©横山美術館「七宝舞楽図大花瓶」安藤七宝店

       ©横山美術館「七宝竹鶏図大花瓶」作者不詳

       ©横山美術館「七宝菖蒲図大花瓶」作者不詳


 一方で、アーレンス商会へ塚本貝助に同行した者のなかに桃井英升がいて、彼は明治5年(1872)に京都へ行って七宝の会社を設立、尾張七宝の技術を伝授、並河靖之は桃井英升に学び、京都の舎密局に勤めていたドイツ人化学者のワグネルの協力で黒色透明釉の開発に成功したと言います。
 並河靖之は東の濤川惣助と並び称されて西の並河靖之と言われ、二人は帝室技芸員となりました。
 現在でも粟田にある並河靖之記念館は錦光山工場があった場所からもとても近く、並河靖之はわたしの祖父の七代錦光山宗兵衞とも交流があったものと思われます。

 

      ©横山美術館 「七宝草花雀図花瓶」並河靖之

      ©横山美術館 「七宝草花鶏図花瓶」並河靖之

     ©横山美術館 「七宝窓絵桜図花瓶」並河靖之


 また明治前期には錦光山宗兵衛が粟田焼の陶器に七宝を施し、稲葉七穂も明治22年(1889)に錦雲軒を継いで創業し、京都三条は七宝工房が軒を連ねたと言います。

 

 

             ©横山美術館 

 

 ここで錦雲軒に触れておきますと、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いていますが、錦雲軒というのは、わたしの曽祖父の六代錦光山宗兵衞が絵付けを頼み、それを帯山与兵衞とともに神戸の外国商館に持ち込み、輸出の端緒を切り拓いた人物であります。
 また三条通りを蹴上に向かう途中に稲葉七宝店がかつてありました。

 

      ©横山美術館 「七宝波千鳥図花瓶」錦雲軒稲葉

     ©横山美術館 「七宝菊図香炉」錦雲軒稲葉

 最後に錦光山の七宝に触れておきますと、錦光山の七宝は銅や銀といった金属などの素地ではなく、陶胎七宝であり、金属の素地のような輝きはありません。しかしながら、しっとりした質感が感じられ、独特な風合いがあり、またデザインも緻密でマジョルカ焼のような面白さがあるように思われます。 


 横山美術館の解説にもありましたが、錦光山は陶磁胎七宝であり、これは白い陶磁器の胎であれば本来の美しい発色を活かすことができるのですが、七宝加工を施す前にいったん焼成した白素地の釉薬を削り取る手間がかかり、亀裂も生じやすく技術的に困難なため、明治時代前期の短期間しか制作されなかったと言います。
 そのせいかわたしの祖父の七代錦光山宗兵衛は制作していなかったのかもしれません。それで今回、曾祖父の六代錦光山宗兵衛の陶胎七宝だけが展示されているのだと思われます。
 逆にいえば、錦光山の陶胎七宝はそれだけ貴重であり、今回、六代錦光山宗兵の陶胎七宝が見れたことは感動ものでした。

 

 

   ©横山美術館 「陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛

    ©横山美術館 「陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛

   ©横山美術館 「陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛

    ©横山美術館 「陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛

    ©横山美術館 「陶胎七宝花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛


   ©横山美術館 「上絵陶胎七宝窓絵花蝶図花瓶」六代錦光山宗兵衛



  また「近代七宝の流れ」のなかにも錦光山を入れていただき、横山美術館さまには改めて感謝いたします。

 

            ©横山美術館

 

 

              ©横山美術館
 

 繰り返しになりますが横山美術館さまには、このような素晴らしい七宝展を開催していただき、本当にどうもありがとうございます。心より感謝申し上げます。なお「超絶技巧の七宝展」は今年の12月21日まで開催されています。

 

 

       ©横山美術館 「超絶技巧の七宝展」



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○©錦光山和雄 All Rights Reserved

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映画「旅と日々」



 この映画は、韓国人の脚本家、李(シム・ウンギョン)が机の前で考えているシーンからはじまります。彼女はノートに海辺のシーンと書き、行き止まりの道路に車が一台、後部座席で女が起き上がると韓国語で書きます。


 すると、画面には一人の若い女(河合優実)が映し出され、車の後部座席で起き上がります。そしてその車はロード・ムビーのように、どこかの島の崖が切り立った道路を移動し、海辺に行くのです。木々がザワザワと風に揺れる道を通り抜け、若い女は強い風にスカートを煽られながら崖を下りて砂浜に行きます。

 

 

 その砂浜には若い男(高田万作)が、所在なげに海を眺めています。
 女は男に声をかけます。すると、男は海を眺めながら昔あの岬で漁船の網に子どもを抱いた女の土左衛門がかかり、子どもは蛸に襲われて半分骨になっていたと話します。どこか不気味さが漂います。
 翌日、台風が近づいてきて、雨が降りしきるなかを男は掘っ立て小屋のなかで海を見つめています。女がその隣にすわると、男はテングサを煮てかためたトコロテンが入ったみつ豆を食べさせてくれます。
 しばらくして女は今日が最後だから泳ぐと言って、ビキニ姿になり、大きく波がうねる海のなかに入っていきます。男も海に入り、大きな波の間を漂います。
 その荒れ狂い泡立つ海の画面を見ていますと、泡立つ波の裂け目からにゅると死の影が姿を現し、そのまま二人は海の底に飲み込まれてしまうのではないかと心配になってきます。
 この映画では、なぜその女が海に来たのかまったく説明されないので、女が何かを求めてやって来たのか分からず、ただ彷徨っているように感じられます。そして圧倒的な映像に、どこか官能的で死の影とともに生の危うさ、切なさを感じさせます。この海辺の話はつげ義春の『海辺の叙景』が原作だそうですが、その漫画に漂う寄る辺なさがよく出ている映画だと思います。

 

 

       ©つげ義春 「海辺の叙景」

                 ○©つげ義春「海辺の叙景」

            ©つげ義春 「海辺の叙景」
 

 映画のなかで、この「海辺の映画」の上映会が開催され、監督とともに脚本家の李さんも参加者から質問を受けます。李さんは思わず「私にはあまり才能がない」と言い、さらに自分は言葉に囚われていて、言葉の檻のなかにいるようだと言うのです。
 それがどう言う意味か分かりませんが、もしかすると言葉という檻から出ることによって、つくりものではないリアリティが得られると言っているのかもしれません。
 というのも、わたしたちの日常で起こっていることは、そんなに簡単に言葉でとらえられるものではなく、言葉にした時点で砂が指のあいだからこぼれ落ちていくように、かなり嘘っぼいものかもしれないのです。言葉などなく映像を見せる方がリアリティのあるものになりえるのではないでしょうか。

 次に李さんは列車に乗り、トンネルを抜けて雪国に行きます。だが、その雪国の宿はすべて満室で、李さんは雪のなか山の上にある一軒家のおんぼろな宿を訪ねて行きます。その宿は屋根から長いつららが垂れ下がり、妻子と別れたらしい、べん造(堤真一)という男がひとり孤独感を漂わせています。

 

        ©つげ義春 「ほんやら洞のべんさん」

 

 囲炉裏に座り、べん造は、脚本家である李に滅多に客が来ないこの宿のために何か宣伝になるようなものを書いてくれと言うのです。と言っても、とりたてて材料もありません。それで李さんが、錦鯉でも飼ったらと言うと、二人は夜、雪のなかを川を渡って錦鯉を盗みに行くのです。その時の雪に埋もれた山の木々や雪に覆われた家の情景などが言葉がなくても圧倒的な存在感で迫ってくるのです。

 

 

        ©つげ義春 「ほんやら洞のべんさん」

 

 この話もつげ義春の『ほんやら洞のべんさん』が原作なのですが、ストーリーはほぼ変わりませんが、原作では主人公が漫画家であるのに対して映画では李さんとなっています。そしてシム・ウンギョンが演じる李さんがとてもいいのです。李さんが風に帽子を吹きとばされて拾いに行き、雪に足をとられて転びそうになるシーンがありますが、とてもありのままに自然に演じていて、本当に彼女が日本の雪国にはじめて旅をしているという雰囲気が見事に醸し出されているのです。

 この映画はつげ義春の漫画を原作にしているそうですが、つげ義春という漫画家は、よく旅を題材にしていて旅情をかきたてるとともに、主人公の行動と思考を通して日常から突然、どこか遠くの見たこともない風景にワープし、日常にもどれなくなるかもしれない怖さを描くのうまい漫画家と言われているそうです。
 わたしもつげ義春の漫画を読んでみて、そんな感じを受けました。日々の日常にひそむ怖さ、ちょっとした違和感をどこかひょうげた登場人物と圧倒的なリアリティのある風景を描くつげ義春の漫画には今も根強いファンがいるのではないでしょうか。この映画も、とりわけ何が起こるわけでもないのですが、それでも何かを感じさせる、不思議な映画であり、つげ義春の漫画に魅せられた映画作家による、その系譜のなかに入る映画と言えるように思われます。
 
  なお、蛇足ながら、この映画は、ロカルノ国際映画祭グランプリ受賞作品だそうです。

 


○©錦光山和雄 All Rights  Reserved

著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」
著書「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」


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