錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

ひょんなことから国会記者会館に



ひょんなことから今年の7月に国会記者倶楽部の会員になりました。

 

国会記者倶楽部の近くの「春秋」で食事をして、国会記者会館に行きました。

 

 

 

幹事の方から国会記者俱楽部の記者記章をもらいましたが、実際に取材をする

ためには、もう一つのバッジも必要とのことでした。

 

帰りにお土産として「キッツーの瓦版煎餅(国会版)」と「壱億円メモ」をもらいました。これは国会内の売店で売っているものだそうです。

 

 

 

帰り際に国会記者会館から首相官邸がものすごく近いのに驚きました。

 

 

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#国会記者会館 #国会記者俱楽部 #記者記章

#キッツーの瓦版煎餅 #壱億円メモ

サイゾーで苫米地英人博士の新連載スタート❣

#サイゾー11月号 が楽しみ❣

 #苫米地英人博士 が20年ぶりにサイゾー

 「#ドクター苫米地に聞け!」

 #新連載スタート‼

 

  サイゾー11月号は  「僕たちは洗脳されてるんですか?」  

 

  動画「#ドクター苫米地の洗脳批評」  QRコード付き❣

 

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帯山与兵衛の美の秘密:Martin Reynolds氏の知見

Mr.Martin Reynolds Taizen collection ©Mr.Martin Reynolds

 

 わたしはかねてから粟田で禁裏御用を勤めていた粟田焼の名家である、九代帯山与兵衛の雅で華麗な世界はどのようにして出来たのだろうかと思っていました。

 そんな折に、イギリス人で帯山与兵衛コレクターであるマーチン・レイノルズさんと知り合い、マーチンさんから九代帯山与兵衛の雅で華麗な世界の秘密の鍵を解く新しいヒントを教えていただいたので、この場でご披露させていただきたいと思います。

 

 まず、次の画像をご覧ください。冒頭の画像の一部を拡大したものですが、壷や花瓶の器面いっぱいに牡丹のような花と雀のような小鳥が飛翔する姿が描かれています。

 

 

Mr.Martin Reynolds Taizen collection ©Mr.Martin Reynolds

   次に幸野楳嶺の絵をご覧いただきたいと思います。

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」
参考作品4 一部分 ©滋賀県立近代美術館

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」 参考作品4 一部分 ©滋賀県立近代美術館

 九代帯山与兵衛の作品と幸野楳嶺の描く牡丹の花と小鳥とがとても似ているのです。つまり、九代帯山与兵衛の雅で華麗な作品の源泉に幸野楳嶺があるのではないかと思われるのです。

 ここで幸野楳嶺に触れおきますと、幸野楳嶺(1844~1895)は、京都に生まれ、円山派の中島来章や四条派の塩川文麟に師事して、円山四条派の写生の伝統を受け継ぐ形で、雅な花鳥画を描いた日本画家だそうであります。

 また幸野楳嶺は、わたしの曾祖父の六代錦光山宗兵衛もかかわった京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)の設立に尽力した画家であり、画学校や私塾で後進の指導に熱心に取り組み、竹内栖鳳(1864~1942)や上村松園(1875~1949)を育てた画家だそうです。

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」 ©滋賀県立近代美術館

 

 もし九代帯山与兵衛が幸野楳嶺の絵を写したり、下絵として取り入れていたとしたら、それはどうしてなのかという疑問が残ります。それを解く鍵は九代帯山与兵衛の来歴にありそうです。

 と申しますのも、九代帯山与兵衛は、安政3年(1856)に三代清水六兵衛の次男として生まれ、名は龍三郎といい、四代清水六兵衛の弟にあたります。龍三郎は八代帯山与兵衛が、明治11年(1878)に没したことから、翌年の明治12年(1879)に24歳のときに帯山家の養子になり、九代帯山与兵衛を継いだそうであります。

 彼の実家の清水六兵衛家では、父親の三代清水六兵衛は南画家の小田海僊に絵を学んだそうですが、幸野楳嶺と親交があり、兄の四代清水六兵衛は塩川文麟に師事し、その弟子の幸野楳嶺と義兄弟の契りを結んでおり、甥にあたる五代清水六兵衛は幸野楳嶺に師事しているのです。

 清水六兵衛家と幸野楳嶺にこれほど深い関わり合いがあれば、九代帯山与兵衛にとって、幸野楳嶺の画風がとても身近なものであったと推察され、九代帯山与兵衛が幸野楳嶺の絵を写したり、下絵として取り入れても不思議ではないと思われます。

 実際、錦光山宗兵衛でも、伊藤若冲の「秋塘群雀図」を写した「秋塘群雀図花瓶」があるのです。

 

  またマーチン・レイノルズさんから教えていただいたもう一つのことは、粟田の陶芸家で文化勲章を受章した楠部彌弌(くすべやいち)の父親である楠部千之助と不思議な縁があるということです。

 下の画像にありますように、九代帯山与兵衛と楠部千之助は非常によく似た花瓶をつくっており、裏印には「大日本 帯山製」と「大日本 楠部製」と記載されているのです。

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

  次の画像は、すべて「大日本楠部製」となっており、楠部千之助の作品ですが、その意匠が九代帯山与兵衛の作風と驚くほど似ています。これをどう理解したらいいのか言葉を失います。謎がますます深まった感があります。

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

 ことの真相は分からないので、ここでは楠部家は白川の近くの工房を構え、帯山家は東錦光山家の左隣ですから、とても近いので、帯山家と楠部家との間に濃密で親しい関係があったのでないかと想像いたします。さらに言えば、錦光山も含めて粟田の窯元、陶芸家たちは、京都画壇の伝統を引き継ぎながらよりより良いものを作ろうと切磋琢磨していたのではなかろうかとつい想像したくなるのです。

 

明治40~45年頃の粟田付近窯要図

  いずれにいたしましても、九代帯山与兵衛の美の秘密を解き明かすヒントをくれたマーチン・レイノルズさんには感謝いたします。マーチン・レイノルズさんは九代帯山与兵衛を中心とする300点以上のコレクションを本にする予定だそうで、その中でわたしの文章を英訳したものを掲載してくださるようです。ありがたいことだと思います。

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

  なお、 下の画像は、名古屋市の横山美術館で開催されております「錦光山と帯山」展の展示されています、九代帯山与兵衛の「上絵金彩牡丹鳥図花瓶」です。鶴首の花瓶の表面に手吹きのブルーのグラデーションが施され、牡丹の花の間を鳥たちが飛び交うこの作品はなんと美しいのでしょうか。

 

九代帯山与兵衛「上絵金彩牡丹鳥図花瓶」横山美術館蔵 ©横山美術館

 こんなに素晴らしい作品を作り上げた 、九代帯山与兵衛は、内外の博覧会で毎年のように賞を受賞していたのですが、明治27年(1894)には粟田での陶業を廃業して、洛南の南山焼の再興に努め、さらに台湾に渡り、大正11年(1922)に67歳で没したといいます。

 粟田で活躍した期間がわずか15年程度で九代帯山与兵衛が、これほど素晴らしい作品を作り上げたということは驚嘆すべきことと思われます。

 残り少なくなってまいりましたが、横山美術館の「錦光山と帯山」展も、まだ10月9日まで開催されています。是非、錦光山のみならず帯山の素晴らしい作品をご自分の目でご覧になっていただきたいと思います。

 

 

横山美術館「錦光山と帯山」展  ©横山美術館



横山美術館「錦光山と帯山」展  ©横山美術館

 



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新しい才能の出現:芥川賞受賞作・市川沙央「ハンチバック」

 

市川沙央さんの芥川賞受賞作「ハンチバック」を読みました。

 

極度に湾曲したS字の背骨の主人公釈華さんがこうつぶやく。

 「せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

 皮を剥いた巨峰を首から上しか動かないおじさんの口に挿し込む若者の真っ直ぐな背中を見遣りながら、私はきれいに食べ終えた味噌煮の鯖の中骨を箸先でぽっきり折った。」

 この文章はすごいと思います。

 主人公の屈折した心理がすべて凝縮して表現されているのではないでしょうか。

 さらに

「だからこそBuddhaと紗花は下品で幼稚な妄言を憚りなく公開しつづけられた。蓮のまわりの泥みたいな、ぐちゃぐちゃでびちゃびちゃの糸を引く沼から生まれる言葉ども。だけど泥がなければ蓮は生きられない。」

 この文章からは作者の文章技術の高さと書くことへの肝のすわったある種の覚悟が感じられるように思われます。

市川さんは受賞インタビューのなかで、

「そもそも西洋由来の理性主義は、ものを考えて発信することを人間の基本としていますが、私はそれを人間の定義として狭すぎると思う。…ものを考えなくても、喋れなくても、書けなくても。」

 と語っています。

 もしかしたら、人間はそんなに完璧な生き物ではないかもしれません。無限に膨らむ欲望に歯止めをかけられずに地球を破滅に導くかもしれないし、戦争だって止めることができていないのですから。

  市川沙央さんは、文学の世界にまったく新しい領域を切り拓き、わたしたちに従来の人間観のリセット迫っているのではないでしょうか。

 村上春樹さんや多和田葉子さんにノーベル文学賞を取ってほしいですが、市川沙央さんのような作家こそノーベル文学賞を受賞してほしいです。

 わたしはこの新しい才能の出現をよろこびたいと思います。

 

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希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才のルーツを探る(Ⅱ)

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「お祖母さまの苫米地千代子さま編」

 平和で差別のない世界を目指して世界で活躍されています希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才はどのように生まれたのでしょうか。それを知るためには、前回は苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまからその秘密を探りましたが、今回はお祖母さまの苫米地千代子さまからその秘密を探ってみたいと思います。

 苫米地千代子さまは、明治22年(1889)に京都で生まれましたが、明治30年(1897)に東京の本郷西片町10番地に転居され誠之小学校に編入されています。

 その苫米地千代子さまが、当時89歳の昭和53年(1978)9月から翌年の7月にかけて、『潮音』の歌人としても短歌を織り込みつつ、明治、大正、昭和にわたる長い生涯の思い出を綴った『千代女覚え帖』という本があります。この本は、当時かなり私事にわたっていたこともあり、また小泉八雲夏目漱石、加納治五郎、山本五十六宮沢喜一など著名な方々の記載もあることから私費出版とされましたが、その後、三十数年を経て開拓社から出版されました。出版祝いの帰りに、お父様の苫米地和夫様と一緒に、苫米地千代子さまが、少女時代を過ごされた「東京市本郷区西片町十番地ほの二十六号」の地を訪れたときのことが昨日のように思い出されます。

 

『千代女覚え帖』のまえがきで苫米地英人博士も「90歳の年齢にもかかわらず、その記憶力と文才には誠に驚嘆すべきものがあります」と書かれています。実際、苫米地千代子さまの文章はじつに瑞々しく、当時の状況が目に浮かぶように生き生きと描かれており、まさに心に沁みる名著と言えましょう。

 

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 その『千代女覚え帖』のなかで、お祖母さまの苫米地千代子さまはお父様の佐久間信恭様に触れて下記のように書かれています。

「父は幕臣大久保主膳忠恕の次男として文久元年、江戸深川森下町に生れ、幼名を小次郎、長じて信恭といいました。実父忠恕は長崎奉行京都町奉行、陸軍奉行などを歴任、五千石の旗本でしたが、幼い小次郎を親友佐久間信久に養子として委ねました。養父信久は、役高八千石を食み、将軍家慶に信頼されて歩兵頭、歩兵奉行などに任ぜられましたが、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦に、一隊を率いて奮戦、深傷を負うて戦死しました。いまわの際に老僕を呼び、養子信恭を西洋人につけて泰西の学術を勉学させるように遺言しました」とあります。

  繰り返しになりますが、 苫米地英人博士の祖母方の曾祖父佐久間信恭(のぶやす)さまは、幕臣の子弟でありまして、佐久間信恭様の実父は、長崎奉行や京都奉行を歴任し、鳥羽伏見の戦いでは陸軍奉行並として幕臣を率いた旗本大久保忠恕様です。かの新選組局長近藤勇に名刀長曽袮虎徹を授けた人物でもあります。佐久間信恭様は大久保忠恕様の次男として生まれ、その後、旗本佐久間信久様の養子となっています。養父・信久様は歩兵頭などを経て、歩兵奉行並となり、鳥羽伏見の戦いでは総大将として出陣しますが狙撃され亡くなりました。死に際に従僕に「これからは文明開化の時代であるから泰西の学術を勉学させるよう」と遺言したのであります。

その遺言もあってか、苫米地英人博士の曾祖父・佐久間信恭様は、明治・大正時代の著名な英語学者となりました。具体的には、佐久間信恭様は養父信久様の遺言に従い洋学を学び、札幌農学校時代には新渡戸稲造内村鑑三両氏とともに聖書講読会を結成したのです。

 明治24年(1891)には、熊本の第五高等中学の英語主任教授になり、当時、同僚であった夏目漱石小泉八雲らと親交を結びます。苫米地千代子さまの『千代女覚え帖』によりますと、夏目漱石が五高の生徒に”僕が分からないところは佐久間先生に習って教えるからー”と述べたとのことです。

その後、明治35年(1902)に佐久間信恭様は東京高等師範学校英語科に移りますが、後に高山樗牛銅像の除幕式で土井晩翠などの学者が集まり当代の学者でだれが記憶力が良いかと話題になったときに、皆が一致して佐久間信恭様を挙げたと当時の雑誌に書かれたというエピソードがあるそうであります。

 このように見てきますと、前回も書きましたが、苫米地家は英語に思い入れの強い家系でありまして、それだけでなく養父・佐久間信久様の「泰西の学術を勉学」という遺訓、さらにはその遺訓を継承して、曾祖父の佐久間信恭様が抜群の記憶力を持った著名な英語学者になられたことのなかに、苫米地英人博士の天才の秘密が隠されていると言えるのではないでしょうか。

 苫米地英人博士のお祖母さまの千代子さまは、女子高等師範付属高等女学校(お茶の水)を卒業してから大正元年(1912)に苫米地英俊様と結婚するときに、お父様の佐久間信恭様から”夫が本を買うお金は惜しむな。どんな苦しい時でも夫が本を買いたいといわれた時は工面しなさい”と言われたそうであります。学者のお父様らしい言葉ではないでしょうか。

 明治45年(1912)、苫米地英俊さまは、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から「北海道に柔道を広めに行け」の一言で、結婚したばかりの千代子さまを伴い小樽高商へ赴任することになりました。

苫米地千代子さまは「潮音」の歌人でもありました。

小樽への出立に際して、『千代女覚え帖』のなかで、

 ”さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき” 

という歌を詠んでおられます。

苫米地英俊さまと千代子さまは津軽海峡を越え、春まだ遠き小樽の地に赴いたのであります。

そして小樽の地で

”知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり” 

 という歌も詠んでおられます。

お二人を出迎えるために集まった生徒たちの歓声が聞こえてくるようではありませんか。

 そして大正6年(1917)に苫米地英俊さまは、外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチエックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)を出版いたします。前回書きましたが、この「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し、昭和33年に至るまで出版された名著であります。このコレポンの日本語訳の候文は、苫米地千代子さまが書き直したものだそうで、その候文は大変な名文で戦前商社の人が国内の通信文にその候文を利用したほどだったそうです。まさに苫米地千代子さまの文才がしのばれるエピソードではないでしょうか。

  縷々述べてまいりましたが、私にはこうした祖父英俊さま、祖母千代子さまがおられたからこそ、苫米地英人博士の天才があるように思われてなりません。この稿の最後に、千代子さまの歌を掲げさせていただきたいと思います。

 “あるがままに今日の運命(さだめ)は受け入れて明日の望みに生きんとぞ思ふ”

  まさに、 幾多の悲しみを乗り越えてこられた千代子さまの絶唱ではないでしょうか。

 

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希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才のルーツを探る(Ⅰ)

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「お祖父さまの苫米地英俊さま編」

 平和で差別のない世界を目指して世界で活躍されています希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才はどのように生まれたのでしょうか。それを知るためには、苫米地英人博士のルーツをたどる必要があるのではないでしょうか。

そのために苫米地英人博士のお祖父さまの苫米地英俊さまがどんな人であったのかを探っていきたいと思います。

  苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまは、開拓社から刊行されております『北の街の英語教師』によりますと、「明治17年1884年)に福井県大野町に生れている。その後長野県に移り、長野中学を卒業後、明治37年(1904年)に東京外国語学校英語科に入学した」と書かれています。 苫米地英俊さまは柔道の達人で、東京外国語学校在学中に嘉納塾に入り、講道館で柔道に励んだそうであります。

 

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 苫米地英人博士のお父様の苫米地和夫さまは、旧日本興業銀行(現みずほ銀行)常務、和光証券(現みずほ証券)社長・会長をなされ、日本証券業協会経団連などの理事を歴任された方ですが、苫米地和夫さまが書かれた『緑丘と父 ー父、苫米地英俊の思い出』によりますと、苫米地英俊さまは、長野時代から柔道の試合で、かかってくる相手を次々と“跳ね腰”で投げ飛ばすほど強かったそうで、めきめきと頭角をあらわし長野県下で有名であったそうです。それで、苫米地英俊さまは、当時姿三四郎のモデルになった人物を含めて四天王といわれる猛者がいた講道館の加納治五郎館長にスカウトされ、東京に出て来て東京外国語学校英語本科に通っていたそうです。講道館に入門後、嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたっていたそうです。苫米地英俊さまは当時の全日本学生柔道大会で、決勝の相手の早稲田大学中野正剛と戦い払い腰で倒して優勝したそうであります。

 明治45年(1912)、苫米地英俊さまは、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から「北海道に柔道を広めに行け」の一言で、結婚したばかりの千代子さまを伴い小樽高商へ赴任することになりました。

 小樽高商に赴任した苫米地英俊さまは、今度来た先生の出鼻を挫こうと柔道部の猛者に道場に引っ張りだされたのですが、「皆一緒にかかって来い!」と言って、五人を相手に電光石火のごとく全員を投げ飛ばしたそうです。さすがに柔道八段の腕前でございます。

 小樽高商時代の苫米地英俊さまは、「正気寮」の寮監をしながら学生たちと一緒に風呂に入り、また教授として英語を教えておりました。苫米地英俊さまの小樽高商での授業はどのようであったかといいますと、『北の街の英語教師』によりますと、「授業の前半分は夏目氏『坊ちゃん』の一節の英訳に就いての研究があって、後三十分間はCommercial Correspondenceの教科書の輪読であった」と書かれており、また同僚のイギリス人教師と協力して夏目漱石の「二百十日」の英訳を『英語青年』に連載しておられ、英語学者として充実の日々を過ごされていたと思われます。

 そして大正6年(1917)に外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチエックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)を出版いたします。この本は教材になり学生からは「コレポン」と言われていたそうであります。また、当時、苫米地英俊さまは学生から「トマさん」と愛称で呼ばれていたそうで、「トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン 音がする」と歌われたそうです。なお、「コレポン」は「コレスポンダンス」の略であります。この「コレポン」は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し、昭和33年に至るまで出版された名著であり、苫米地家の家計を支えたそうであります。日本語訳の候文は、苫米地英人博士の祖母・千代子さまが書き直したもので、その候文は大変な名文で戦前、商社の人が国内の通信文にその候文を利用したそうです。

 その後、苫米地英俊さまは、大正9年(1920)から11年(1922)の間、商業英語と国際法の研究のためにオックフォード大学とハーバード大学に留学され、アメリカのハーバード大学の寮ではのちに連合艦隊司令長官になる山本五十六元帥と一緒になり、元帥が戦死されるまで親交を結んでいたそうであります。 そして今となりましては、大変貴重な山本五十六元帥直筆の苫米地英俊様宛ての手紙「連合艦隊司令部にて 山本五十六」が苫米地家に大切に保管されております。また帰国の途についた同じ船にアインシュタインと同乗しており、11月10日にノーベル賞の受賞が決まり、朝日新聞からの無線の依頼で苫米地英俊さまが臨時特派員となりアインシュタインにインタビューをしたそうであります。

 昭和10年に苫米地英俊さまは、小樽高商校長に就任、戦時中は「英語は敵国語」として英語教育について軍部から売国奴呼ばわりされるなど厳しい批判を浴びたそうですが、毅然とした態度で英語教育の重要性を訴え、頑として軍部から英語教育を守り続けたという硬骨の人でもあります。

 

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 こうした経験が戦後、日本を誤った道に進ませたことに官立学校の校長としての無力さを痛感し、戦後の復興に全力を傾注したいとの思いから政界に出て、衆議院議員4回、参議院議員1回当選し、また民主自由党常任総務、自由党総務などを歴任することになり、55年の自由民主党設立にもかかわったのであります。

 なお、苫米地英人博士のお父様の苫米地和夫さまは父親の苫米地英俊さまが政治家であった関係もあり、若くして苫米地英俊さまの政治活動などを手伝い、宮沢喜一元首相などにとても可愛がられたそうであります。

  読者の皆さまは、苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまの生き方から何を感じられたでしょうか。わたしは、苫米地家が英語および柔道に思い入れが強い家系であり、お父様の苫米地和夫さまが旧日本興業銀行のニューヨーク勤務となり苫米地英人博士もニューヨークに駐在し、後にカーネギーメロン大学に留学されて博士号を取得されたことなどを考えますと、苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまの生き方のなかに苫米地英人博士の天才の秘密が隠されているのではないかと思われてなりません。

 次回は、苫米地英人博士の祖母・苫米地千代子さまから苫米地英人博士の天才の秘密を探っていきたいと思います。

 

 拙著もよろしくお願いします。

 

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"Taizan Yohei" collector and Kinkozan

©Mr.Martin Reynolds 「Taizan Yohei' s  pot」

Recently I come to know Mr.Martin Reynolds.

He is a "Taizan" collector.

 

He asked me as below.

  That pot was made by Taizan Yohei ix and since then I have collected some 200 plus pots and two tea services all made at the Taizan kiln. I have also collected pieces by your ancestor as for some time they had a parnership and some pieces were signed by both.I have also bought some pieces by Kinkozan simply because i loved them.

 I am hopefully going to complete the catalogue of my pieces later this year, i would like to write something useful about Taizan and Kinkozan, sadly your book is in Japernese! Louis Lawrence - whom you know - hoped you might be able to help me. Are you thinking of publishing in English?

  I understand you have been in publishing - you will know how important your book is as the records of the Kinkozan kiln and Taizan kilns no longer exist. 

  I would be so grateful if you discovered anything about Taizan Yohei ix suring your research for your book.

   My answer is below.

  I was surprised to read your message.

 Because it's happen to that "Kinkozan and Taizan" exhibition will be held in Yokoyama Art Museume ,Nagoya City from 7th June to 10th October.

 Unfortunately it's not easy to publish the English version of my book and I don't know any descendents of Taizan. 

However I appreciate what Mr.Louis Lawrence has done for me and I respect him so much.

And I got it that you would like to write something about Taizan and Kinkozan in your catalogue.

So I would like to write some a brief paper about Kyo-Satsuma and Kinkozan &Taizan.

 

Then I wrote  some brief paper about Kyo-Satsuma and Kinkozan &Taizan.

And I asked Mrs.Akiko Nishida ,the auther of "Satsuma Buttons and Buckles" to translate it.

〇©Nishida Akiko 「Satsuma Buttons and  Buckles]

After Mrs.Akiko Nishida 's translation I send the English essayt to Mr.Martin Reynolds.

 

 

My English essay "Kinkozan and Taizan" as below.

 

Apart from some soft grazed earthenware like Raku Ware which has been baked in an inner kiln, there were various types of wares called Kyo-Ware, that is Kyoto Ware. They were Omuro Ware opened by Nonomura Ninsei, the great master of colored painting, Kenzan Ware created by Ogata Kenzan, Mizorogaike Ware, Shugakuin Ware. Kiyomizu Ware, Otowa Ware etc. Among them, Awata Ware which began to be baked in the climbing kiln by Sanmonji Kyuemon in 1624, was the oldest. He originally came to Awata from Seto in Owari (now Aichi Prefecture).

 However, most of those wares disappeared in the late 17 th century and were integrated into two wares, Awata and Kiyomizu・Otowa.  At the beginning of the 18 th century, Awata Ware reached the period of prosperity overwhelming others. 13 kilns and 7 smaller baking firms produced the best and most wares, including Kinkozan and Iwakurayama, known as tea bowl purveyors to Shogun family, Taizan Yohei, a dedicator of wares to the Imperial Palace, Hozan Yasubei, one of purveyors to the federal lords. The distinctive feature of Awata Ware is the overglazed painting with blue, green, and gold on the cream-colored bisque with cracks. It can be said that these colors were greatly influenced by Ninsei’s beautiful painting.

 Entering the 19 th century, Kiyomizu Ware in Gojyozaka rose sharply as an emerging force. They had been content to make daily goods, but they began to introduce the technique of porcelain into their production. They bought up the clay, lured out craftsmen of Awata, and made high-class overglaze-painted pottery that looked like Awata Ware. Finally in 1823, the great conflict between Awata and Kiyomizu (Gojyozaka) erupted. Kiyomizu (Gojyozaka) allied with pottery wholesalers and inflicted a painful blow on Awata, the stronghold of the stably established force in Kyoto Ware.

 Despite this conflict during the late Edo period, several master craftsmen such as Okuda Eisen, Aoku Mokubei, Ninnami Dohachi (second Takahachi Dohachi), and Eiraku Hozen appeared in the world of Kyoto Ware.

 After the upheaval at the end of the Edo period, there were strong hopes for people in Kyoto to recover their city, but the new government of the Meiji era moved the capital to Tokyo in 1869. The emperor, nobles, bureaucrat, and industrialists followed to move to the new capital. Kyoto faced a crisis of decline.

 Sixth Kinkozan Sobei (1823-1884), the major kiln master in Awata lost the status as tea bowl purveyor to the Shogun family and many important customers. He, however, trying to improve the glaze, finally developed an elaborate overglaze painting technique called Kyo-Satsuma in 1870. On the other hand, together with Taizan Yohei, he visited foreign merchants in Kobe and embarked on foreign trade in 1872. Kyo-Satsuma rode on the opportunistic wave of Japanism and greatly prospered. Japanism had been spread like the wildfire in the Westerners countries since they were ignited by lots of Japanese arts, such as ceramics, ukiyo-e paintings, handcrafts exhibited at the second Paris World Exposition in1867. By the expanding exports, Kyo-Satsuma played a role in the reconstruction of Kyoto.

 One of the typical designs of Kyo-Satsuma in those days was a gold arabesque pattern drawn on a lapis lazuli background. Several windows are placed on the side of the pottery and various flowers and beautiful women dressed in kimono are painted inside them. It can be said that these elegant paintings inhabit the tradition of Awata Ware.

 Though Kyo-Satsuma went smoothly achieving success at the three expositions; Vienna, Philadelphia, and the 3rd Paris, it gradually fell into overproduction and quality deterioration. In 1884 during the great recession, it came to be faced to “the scene of extinction of Awata Ware”. Just this year, my grandfather, the 7 th Kinkozan Sobei(1868-1927) took over the 6 th Sobei. When he learned that his representative masterpiece, “Ornamental Jar with a Pair of Phoenixes” was not exhibited at a museum during the Chicago Exposition in 1893, he realized that Japanism had come to an end.

 Even in Japan, he felt a sense of crisis in the general decline of Kyoto Ware, because only Seihu Yohei got the prize at the 4 th Japan Industrial Exposition held in 1895. Yohei exhibited a monochromatic glazed work modeled after China ware. As the president of Kyoto Ceramics Chamber of Commerce and Industry, 7 th Sobei worked hard with Shohu Kajyo to build a ceramic testing facility for Kyoto Ware and established it in 1896. Later, many famous potters like Kusube Yaichi, Yagi Isso, Kawai Kanjiro, and Hamada Shoji learned here and went out into the ceramic world.

Next, when 7 th Sobei visited Paris to inspect the World Exposition in1900, he got shocked to see the Art Nouveau style dominated Europe and then he decided to undertake the reform Kyoto Ware. As soon as he returned to Japan after visiting various kilns in Europe, he started to reform the glazing technique, to improve the kiln, and to modernize the equipment, pondering together with Fujie Eiko, the head of the ceramic testing facility and Suwa Sozan, the advisor of Kinkozan factory. Adding these reforms, he tried to innovate the design with Asai Chu, the western-style painter, Dr. Nakazawa Iwata, the applied chemist, Kiyomizu Rokubei, and Miyanaga Tozan. They set up a study group of design named “Yutoen”

 Owing to the success of these various reforms, by the year of 1910 when Japan-British Exposition was held, Kyo-Satsuma had reached the stage of perfection in glaze technique such as the crystal glaze, and matte glaze and luster glaze. In terms of design as well, its diversity showed a dramatic development not only in Art Nouveau style but in other style like Rinpa introduced by Kamisaka Sekka. Kyo-Satsuma finally reached the second peak since the beginning of the Meiji era. It is said that Kinkozan kiln alone exported up to 400,000 pieces in a single year. They flew into the world again.

The family of Taizan Yohei had kept the kiln in the place of Awata for generations and his name appears in the list as one of the eight Awata potters in an old document written in 1799. The family is said to have served as a purveyor to the imperial court. Every year on New Year’s Day, they presented Daifuku tea bowls decorated with pine, bamboo, and plum blossoms. It is told that during 4 th Taizan Yohei generation, he created the pottery with lapis lazuli glaze. Since then, his kiln had continued producing such valuable pottery.

On the other hand, Kinkozan family and Taizan family had kept a good relationship. In 1872, 6 th Kinkozan Sobei and 8 th Taizan Yohei visited some foreign merchant houses in Kobe and succeeded starting the expansion of Kyo-Satsuma export. They had been good friends for long.

The 9 th Taizan Yohei, a younger brother of 4 th Kiyomizu Rokubei, was adopted into Taizan   family. Though he won numerous awards at home and abroad, he failed in foreign trade, which he had put his effort into. It is told that he closed the pottery business.

Now you can see porcelain plaques created by Taizan at the entrance of the small tunnel under the incline ruins near Keage, Kyoto. This is the very place where the Awata Ware was born. It is said the 9 th Taizann Yohei donated them. The characters on the plaques say “ think freely and merrily enjoying the splendid scenery”.

                                                                             Translated by Mrs. Akiko Nishida

 

Mr.Martin Reynolds is coming to see "Kinkozan and Tiazan" exahibition of Yokoyama Art Museum which is held in Nagoya  from 7th July to 9th October 2023.

 

©Yokoyama Art Museum   "Kinkozan and Taizan"Exhibition

©Yokoyama Art Museum   "Kinkozan and Taizan"Exhibition

©Yokoyama Art Museum 「Lidded pot with flower and butterfly design, overglazed with gold Taizan YoheiⅨ

〇©Yokoyama Art Museum 「Kylyu-shaped lidded large incennse burner design,overglazed with gold」 Kinkozan SobeiⅦ

 

 And my lecture meeting  Speech "the attractiveness of Kyo-SATSUMA&Kinkozan" will be held on the 24th of September.

 

©Yokoyama Art Museum   "Kinkozan and Taizan"Exhibition

 

 Finely I would like to introduce my books.

Firsit one is

" Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln               A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world".

 

Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln   A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world".

 

Second one is

"Awata、painted  with love stories  in color              The side story of Kinkozan  Sobei in Awata Kiln". 

 

Awata、painted  with love stories  in color  the side story of Kinkozan Sobei in Awata Kiln

  

  ©Kinkozan Kazuo All Rights Reserved

 

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