錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』とはどんな物語なのか⁉

『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛外伝』書影

 

 前回、拙著『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』の装幀の苦心談をお話をさせていただきましたので、今回は小説の内容に若干触れさせていただきたいと思います。

 まず最初に、皆さまに読んでいただきたいのが、私の友人で元ジャーナリストの田仲拓二氏が書かれた下記の一文です。

いま暮れなずむ京都の街で、三条のイノダコーヒーの椅子に座って、ぼけっとしてまんねん。周りからは、やわらかな京ことばが聴こえてきますえ。ここのクラシックな雰囲気は、いつ来ても、ええですなあ。千恵はんとお民はんでも来やへんかいなと、名物の『アラビアの真珠』をおかわりしたのやけど、なんや慎二郎はん(注、わたしの友人)と錦ちゃん(注、わたしのこと)のやりとりだけが飛び交っているようでんなあ。

 (中略)

おっと、店のドアが開いた。目をあげると、雄二さんみたいな若者が桃子みたいなオナゴはんを連れて入ってきたぞ。こっちを睨んでいるようなので、このへんでやめときまっさ。今夜は祇園ではなく、御所の近くの居酒屋で友人たちと年忘れの一献です。女将はんが朝子みたいな人だとええなあ。ほな、いってきます」

 この一文は、田仲氏が拙著の原稿を読んで送ってくれたものですが、ここに出てくる千恵、お民、雄二、桃子、朝子というのは、この小説に出てくる登場人物なのです。そして、私といたしましては、拙著を読んでくれた皆さまが、はるか遠く時空を超えて、幕末から明治、大正、昭和初期の京都を訪れ、粟田や祇園をそぞろ歩き、いまにもこれらの登場人物が街角からひょっこり顔を出し、実際に会っているような気分になっていただけたら、とてもありがたく存じます。

 それはなぜかと申しますと、この物語の舞台は、もうすでに1世紀近く前の京都の窯業地の粟田であり花街の祇園であります。そして、この物語は、十三歳の祇園の舞妓で幼なじみの千恵とお民が、舞妓の店出しの日に、巽橋の上で「どっちが祇園一の舞妓になるのか勝負せなあかんのや」と対峙するところからはじまるのです。

 二人は同じ歳ながら、千恵は母親のお蓮がお茶屋を経営していることもあり、家つき娘として舞妓になり、芯のつよさを内に秘めた少女であるのに対し、お民は天涯孤独で養い親の”ビンズルお源”に舞妓に出された、目元のぱっちりした勝気な少女であります。同じ舞妓とはいえ境遇はまったく違うのです。この二人は、舞で妍(けん)を競い、やがて京都を代表する粟田焼の窯元・錦光山宗兵衛をめぐって争い、思いもよらぬ運命の糸にもてあそばれるように変遷を繰り広げていく形で物語は展開していくのです。

千恵の面影

お民

 この小説は、サブタイトルが「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛外伝」となっておりまして、私の祖父七代錦光山宗兵衛が軸になっていて、幕末から明治、大正、昭和初期と激動する時代の波のなかで京焼の改革に取り組む姿が描かれております。私は2018年2月に『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』を上梓しており、それが錦光山宗兵衛の正伝ともいえ、またこの物語が宗兵衛もさることながらその周囲の人間模様を描いているので外伝としたのです。

 さて、七代宗兵衛は明治33年にパリ万博の視察にでかけ窯変技法のアールヌーヴォー様式が全盛を迎えていることに大きな衝撃を受けます。日本でも窯変技法が開発できなければ日本の窯業は世界から取り残されてしまうからです。窯変技法の開発の過程で、四代諏方蘇山さまの了解をえて、錦光山工場の改良方顧問でのちに帝室技芸員(当時の人間国宝)となられた初代諏訪蘇山の武勇伝を描いています。また愛知県陶磁美術館の佐藤館長が調査された新しい知見も織り込んでいます。さらに無名の天才絵師・素山も本邦初のアールヌーヴォー様式の花瓶の作成過程に登場させています。

 

若き日の七代錦光山宗兵衛

 最盛期には年間40万個も輸出していた錦光山商店(製陶所)も、昭和10年頃に廃業し、5千坪あった工場や店舗、敷地はなくなり、今残っているものは跡地の路地に「錦光山安全」の祠と粟田神社の「粟田焼発祥之地」の石碑だけで面影を偲ぶものはほとんどありません。

 それは私にとりまして切ないことであります。それゆえ、私はせめて小説の世界のなかだけでも、粟田の人々が生きた証しとして、在りし日の錦光山商店(製陶所)や宗兵衛、また彼を取り巻く祇園の女性たちの姿を蜃気楼のように立ち上げようと思って書いたのが、この物語なのです。

 このように、この物語は、縦糸として幕末から昭和初期にかけての粟田焼の窯元であった七代錦光山宗兵衛の京焼の改革の取り組みを描き、横糸として宗兵衛の家族や彼をとりまく祇園の女性たちの人間模様を描いた、壮大な歴史ロマンといえる物語なのです。

 

錦光山工場全景

錦光山商店正門

錦光山安全の祠

 

粟田神社「粟田焼発祥之地」石碑

 もし皆さまが拙著『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』(開拓社刊、2023年1月12日発売)を読まれて、いまでは遠い異国のようになってしまった明治の京都の雰囲気や風情を感じながら、祖父の宗兵衛や父雄二、および宗兵衛をとりまく祇園の芸妓であった千恵やお民、お蓮、朝子、桃子などの女性たちの健気にたくましく生きた、その声に耳をかたむけていただけましたら、著者としてそれにまさる喜びはありあません。

 どうぞよろしくお願いいたします。 

  

 

  〇©錦光山和雄 All Rights Reseved

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えたいの知れないものが迫ってくる時代

 

 日経新聞に紹介されていたので「月に吠えらんねえ」展を見に行ってきました。

 わたしは知らなかったのですが、「月に吠えらんねえ」展というのは、清家雪子さんという漫画家が、市川市ゆかりの詩人である萩原朔太郎北原白秋、文豪の永井荷風などの作品からイメージされたキャラクターが登場し、時空を超えて交流する漫画を紹介する展覧会でした。

 

 

 わたしはその漫画を読んでいないので語る資格はないのですが、「月に吠えらんねえ」という漫画のなかで、萩原朔太郎は「朔さん」、北原白秋は「白さん」、永井荷風は「カフー先生」として登場し、そのほかにも草野心平は「ぐうるさん」、吉井勇は「ヨッシー」、谷崎潤一郎は「潤さん」、芥川龍之介は「龍さん」、三好達治は「ミヨシくん」、室生犀星は「犀」として登場するそうです。

 

 

 わたしは北原白秋の住んでいた市川市の「紫烟草舎」を訪れたり、永井荷風が愛して毎日のようにカツ丼を食べに行った「大黒家」を見に行ったり、北原白秋と三人の妻を描いた瀬戸内寂聴の小説『ここ過ぎて:白秋と三人の妻』を読んだり、白秋と燐家の人妻の恋を描いた映画「この道」や室生犀星の短編小説を映画化した「蜜のあわれ」を見たりしていたこともあって、漫画「月に吠えらんねえ」に興味を惹かれましたが、萩原朔太郎北原白秋の詩集や永井荷風断腸亭日乗』を愛読している方にはたまらない漫画ではないでしょうか。実際、この漫画には登場人物の文学作品が参考文献として数多く掲載されているようです。

 

 

 日経新聞には「疫病や戦争といった視点から現代的な解釈を試みたのは、作家・詩人の松浦寿輝だ。朔太郎が文壇に登場した1920年前後、スペイン風邪の流行や第1次世界大戦で世界には暗雲が垂れ込めていた」と書かれています。コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻という世界を分断し閉塞感がただよう現在においても、「えたいの知れないものが自分の皮膚に迫ってくる」という感性は通じると言及しています。

 

 

 わたしは萩原朔太郎の『月に吠える』を読んだかどうか記憶もあいまいで、萩原朔太郎のことはほとんど何も知らないのですが、この詩人の鋭敏な感性が、現在のような、えたいの知れないものが迫ってくるような憂鬱な時代を先見していたのかもしれないと思われるのです。

 

 

 〇©錦光山和雄 All Rights Reseved

 

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秋のおくりもの

 

 

 カマキリって
 なんか憎まれ役っぽいけど

 よく見ると
 動作もおだやだし
 どこか愛嬌のある顔をしているなあ

 これも秋のおくりものの一つかもしれない

 

   

 〇©錦光山和雄 All Rights Reseved

 

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