錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

真夜中の観覧車:錦光山和雄初期短編小説集より

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 丘陵の上にある病室から観覧車がみえた。観覧車は、夕方になるとライトアップされ、夜空に色とりどりの光を点滅させている。光の点滅が止まると、三本の太い鋼管で支えられた観覧車の円い縁の白いイルミネーションだけが光っている。

 夏も終わり近くなり、少し蒸し暑い風が病室の開け放たれた窓か入り、室内の冷えた空気と混じり合っている。しのぶは窓際の椅子に寝間着姿で腰かけていた。身体に負担をかけないようにゆったりと座っている。

 しのぶの顔にピンク色の光の筋が映った。観覧車の消えていた光が夜空に点滅しはじめた。白、橙、黄色、水色、青、緑とさまざまな光が華やかな幾何学模様を描きだしている。

 しのぶは窓の外に顔を向けたまま、「夜の観覧車は綺麗だね」とつぶやいた。幾何学模様は、ひまわりや矢車草のような光の花を一定の間隔でリズミカルに描いている。「闇のなかに浮かぶ蜃気楼みたい」娘の操が答えた。「青と緑の扇子みたいな模様がキラキラしてまわっている」しのぶは立ち上がり、おぼつかない足どりで窓に近づいて、両手を軽く胸の前で合わせた。

 しばらく観覧車を眺めていたが、突然、窓の下を見ながら、「おや、重治さんが、あそこでわたしたちを見ている」と言った。「エッ、おかあさん、変なこと言わないでよ」操は困惑の表情をした。

 重治は二十年以上前に脳溢血で亡くなっていた。操は窓から身を乗り出して下を見た。観覧車に向かう道には若いカップルがたたずんでいる。男はTシャツにデニムの短パンをはき、女は両肩を出し、スリムなジーンズを身につけていた。ふたりとも腕をあげて携帯でイルミネーションで輝く観覧車を写していた。年配の男の人影はない。

 「お父さんが、いるわけないじゃない」。「そんなことないよ。あそこの木の下にいるじゃないの」しのぶは木陰の方を指さした。操が、その方角に目をやると、木立の下にベンチがあり、若い男女が寄りそって座っている。木立から少し離れたところに池があり、水面に観覧車のイルミネーションが揺らぎ水面ににじんで見える。

 「今度は、観覧車の切符売り場に並んでいるよ」。「しようがないわね。おかあさんは……」ととがめる口調で言いながら切符売り場の方を見た。切符売り場には、昼間は多くの家族連れが並んでいたが、夜はカップルが多かった。「おかあさん、しっかりしてよ」操は情けない気持ちであった。

 しのぶは重治が亡くなってからも、操が一緒に暮らそうよ、と誘っても一人の方が気ままでいいよ、と断り続けて一人暮らしをしていた。しのぶは長年続けていた趣味を生かしてタピストリー教室を開き、生徒の若い主婦からも慕われていた。それが、二週間ほどまえに膀胱がんの手術を受けてから急に衰えが目立つようになっていた。

 「お父さんがいるなんて変なこと言っているけど、おかあさん疲れているのよ」操は心配そうにしのぶを見た。「疲れてなんかいないよ……。あら、今度はあの女と一緒にいる」しのぶは大きく目を見開いた。「エッ、あの女って誰のこと?」操が怪訝な顔つきをして尋ねた。「重治さんの会社にいた女だよ」重治は定年まで食品会社に勤めていた。

 「あの女が離婚してから深い関係になったんだよ」。操は驚いて、「それは何時ごろのことなの?」。「おまえが結婚するまえだよ」。「じゃ、お父さん、五十代の半ば頃ね」しのぶがゆっくり頷いた。「若い女だったの?」。「重治さんより年上だよ」。「そう……。その人、まだ生きてるの」。「重治さんより先に病気で亡くなったよ。その時に重治さんが、わたしに頼んだんだよ」。「何を?」。「自分が糖尿病で動けなくなったものだから、あの女の葬式に連れて行ってくれってね」。しのぶは眉間にしわを寄せている。

 操は、重治が定年になって数年もしないうちに糖尿病が悪化して動けなくなったことを思い出した。「それで、おかあさん、連れていったの?」。「連れていったりしないよ。ホント、あの人は自分勝手な人だったよ」しのぶは不満そうな口調で言った。

 操は窓から身を乗り出すようにしてしばらく外を見ていたが、後ろを振り返った。「お父さんが、浮気をしていたなんて知らなかった」しのぶが少し困った顔をした。「おかあさん、何でいままで黙っていたの」。「済んでしまったことだから。それに……」。「なあに?」。「わたしも恋をしたからね……」。「エッ、恋! 相手は誰なの」操はあっけにとられたように尋ねた。「おまえの知らない人だよ。達次さんっていってね。職人さんだよ。重治さんみたいに気難しくなくて、優しい男だよ」しのぶの顔に生気が少し戻ってきた。

 「おかあさんの恋はプラトニックラブだったの」。「なんてことを聞くんだろうね。この子は」しのぶがいたずらっぽく笑った。「わたしは達次さんと夜の観覧車に乗ったんだよ。達次さんがわたしの胸にいつまでも手を当てているから、赤ちゃんじゃないのにいいかげんにしなさい!って言ってあげたの」操は思わず苦笑した。「でも、レディはこんなはしたないこと人前で喋ってはダメよ」しのぶは片目をつぶってみせた。

 操は外の観覧車に目をやりながら言った。「おかあさんも素敵な恋をしたなら、お父さんのことも許してあげたら」しのぶは黙って俯いている。「おかあさん、お父さんと仲直りのしるしに三人で観覧車に乗ろうか」操は微笑みながら子供にもどったような口調で言った。

 観覧車のイルミネーションの輝きが増し、しのぶと操、重治を乗せた観覧車はゆっくりと上がっていく。しばらく上昇すると、暗い海が見え、河口近くに五、六隻の屋形船の灯りが小さく見えた。船の胴のところが、夜の闇のなかを泳ぐ熱帯魚のように光っている。

 巨大な円盤の頂点まで来ると、観覧車は展望を楽しめるように数分間止まった。重治は半そでの開襟シャツに灰色のズボンをはいていた。膝の上に手を置いて、二人を見つめてぼそっと言った。「家に帰りたいが、帰れないんだ」しのぶが少しとがめるように言った。「本当に、長い間、帰ってこないね」

 しばらく沈黙があって、観覧車がふたたび動きだした。観覧車はゆっくりと地上にむかって降りていく。次第に駐車場が迫ってきて、駐車場に並ぶ車の一台一台が水銀灯にぼんやり浮かびあがった。観覧車が乗降場まで来ると、係員の女性が素早くドアを開けた。操はしのぶを抱きかかえるようにして客室のボックスから降りた。

 後ろを振り向くと、重治は降りようとせずに、自分でドアを閉めた。重治を乗せたボックスはそのまま上昇していく。重治がガラス窓に顔を押しつけるようにして、こちらを見ている。何か叫んだようだが、何も聞こえない。操が観覧車を見上げると、巨大な恐竜が骨格をさらしてそびえているように見えた。「お父さん、何で降りなかったんだろうね」。「また、しばらく帰ってこないつもりだね。あの人は無口で不器用な人だから」。「おかあさん、お父さんが帰ってこなくてさびしくないの」。「さびしくなんてないよ。おまえたちがいるからね」しのぶが一人きりになると不安がるので、操が連日病室に泊まり込んでいた。

 窓から風が入ってきた。夜半になって風は涼しくなっていた。カーテンが少し揺れた。観覧車の切符売り場に並んでいた人の列もなくなっている。しのぶは顔を少し歪めて「お腹が痛むよ」と言った。操はしのぶをゆっくりとベッドまで連れて行った。「おかあさん、疲れたでしょう。そろそろ、薬を飲んで寝たほうがいいよ」操はコップに水を注いで薬を飲ませた。しのぶは安心したようにベッドに横になり目を閉じた。操はしばらくしのぶの痩せて小さい顔を眺めていた。しわだらけの顔に幼い童女のようなあどけない表情があった。手をとると、温もりが伝わってきた。

 操は病室の窓から外に目をやった。夜の闇のなかにライトアップされた観覧車が見える。じっと眺めていると、観覧車が音もなくゆっくりと回っているように見える。腕時計を見ると十二時近かった。

 光の幾何学模様がリズミカルに繰り返されている。操はしのぶの心臓の鼓動のような気がして、思わず目を閉じた。

 

<錦光山和雄の初期短編小説集より>

 

 〇©錦光山和雄 All Rights Reserved

 

 #錦光山和雄

#真夜中の観覧車

少年の日のびわ

 

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#房総びわ

    少年の日

    屋根にのぼりて

    びわの実を    

    口いっぱいに頬ばりて   

    大きなタネを飛ばしけり

 

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    #房総びわ

    #初物

    #台風被害からの復旧応援

大阪薩摩・藪明山の新たなる発見&知見: YABU MEIZAN

 

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平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」展より

 私が敬愛しております大阪歴史博物館学芸員の中野朋子さまより大阪歴史博物館・研究紀要(第19号)掲載の論考をご恵送たまわりました。

 そこには中野朋子さまが長年研究されてこられた藪明山の新しい知見・発見が記述されており、その成果に目をみはるとともに、とても嬉しく思いました。

 

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  中野朋子さまは、大阪歴史博物館「近代大阪職人図鑑」所収の「アートプロデューサーの先駆け 藪明山」において、

 「藪明山(1853~1934)の日本における知名度は必ずしも高いとはいえないが、国外ことに欧米において”YABU MEIZAN”は明治日本の”SATSUMA”を牽引した作家のひとりとして高く評価されている」と述べ、

 海外で藪明山が高く評価されている要因のひとつとして

 極小の器胎に施された精巧な上絵付にあるが、その精巧な上絵付を実現するために、藪明山工房では凹版銅版による絵付技法を導入していたことに触れ、

 藪明山は自身では絵付を行わず、工房経営者として独自の図案を考案、絵付の品質管理・効率化を進めた、先覚者的なアートプロデューではなかったかという画期的な論考を発表しておられます。

 

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大阪歴史博物館

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藪明山「花づくし花瓶」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

 

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同上

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藪明山「稲荷明神正月図窓絵飾皿」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

 

   今回、論考「『陶画工』藪明山とその作品制作ー銅版を活用した下絵転写技法に関する一試論ー」において、

 中野朋子さまは、新出史資料を得たこと、新たに器胎表面をデジタルカメラやマイクロスコープで撮影・観察を試みた結果、素地に黒インクを圧着した印刷紙圧着法だけでは説明できない釉薬の変質が確認されたという。

 さらに、『陶業時報』のなかに京都の銅版師村上吉次郎(昇進堂)という人物がおり、彼が大阪の辻惣支店の高木文五郎と相談して新しい転写技法を開発したという知見を得て、

 素地表面の釉薬が軽く溶解する程度のごく低温で焼成を行い、転写紙を素地の表面に貼り付け、低温の窯に入れてそのまま焼くことで、ごく細密な描線を確実に転写した可能性があるのではないか、

 との従来の定説をくつがえす、新しい試論を提示し、今後実証実験を実施して検証を進めていきたいとされている。

 さらに中野朋子さまは、藪明山作品の緩衝材として詰められた「反古紙」のなかにあった新出の「藪家文書」から、

 嘉永元年(1848)、大阪生まれの銅版画家・銅版彫刻家の若林長英と藪明山との間に取引が存在していたことが判明した、という新しい発見があったことが書かれています。

 これらは非常に重要な発見であり、今後のさらなる解明が待たれるところであります。

 

 

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藪明山「大輪牡丹蝶文花瓶」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

 

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藪明山「風景図菊詰双耳三足香炉」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

 

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藪明山「緋連雀図口細花瓶」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

 

   

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藪明山「桜並木風景図飾皿」平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

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藪明山「藤絵菊詰金襴手花瓶」

平成記念美術館ギャラリー「藪明山の世界」より

YABU MEIZAN

    わたしは、このブログの記事「錦光山と藪明山」のなかでも触れていますが、錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥文四方瓶」(下の画像参照)の紅葉の図案と、ナセル・D・ハリリの「SPLENDORS OF MEIJI」に掲載されている藪明山の図案がよく似ていることから、藪明山と京都の絵師たちとの間にどのような関係があったのだろうかと大変関心を持っています。

 河合りえ子さまも関心をお持ちのようで、錦光山と藪明山の作品の裏印を見てみたいとのことで、錦光山の一風変わった裏印を見つけて送ってくれました。

    

 

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河合りえ子さまより

 中野朋子さまも、

  今回の論考のなかで「『藪明山ブランド』の制作は明山の工房内のみ行われていたわけではなく、京都・粟田口ほかへの『外注』にも支えられていた可能性がある」とし、詳細については別稿にて報告すると書かれています。 

 まさに大阪の藪明山と私の祖父錦光山宗兵衛が窯を開いていた京都・粟田口との間でどのような展開があったのか、大阪薩摩と京薩摩の見えない糸が繋がるのかどうか、考えるだけでもワクワクドキドキいたします。

 なお、先程、粟田口という地名が出てきましたので、粟田口の窯元であった錦光山宗兵衛の作品「花鳥図薩摩大花瓶」も掲載いたします。

 このところ、コロナ禍で変異株が急増しておりますので、中野朋子さまにはご自愛をお祈りいたしまして、研究の一層の進展を願ってやみません。首をながくしながらも、楽しみにお待ちしたいと思います。

 

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錦光山宗兵衛「色絵金彩花鳥文瓶」錦光山和雄家蔵

KINKOZAN SOBEEⅦ

 

 

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七代錦光山宗兵衛「花鳥図薩摩大花瓶」

KINKOZAN SOBEEⅦ

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七代錦光山宗兵衛「花鳥図薩摩大花瓶」

KINKOZAN SOBEEⅦ


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藪明山「色絵金彩紅葉図花瓶」

YABU MEIZAN VASE 「SPLENDORS OF MIIJI」より

 

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#藪明山 #大阪薩摩 #大阪

大阪歴史博物館  #中野朋子

#焼物 #陶磁器 #工芸

#錦光山宗兵衛 #粟田焼 #京焼 #京薩摩

#SATSUMA #POTTERY

 

追憶のオーガスタ:The Memory of Augusta

 

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 松山英樹がマスターズトーナメント優勝という快挙をなしとげた。

 TV画面を見ていて、オーガスタの記憶がよみがえってきた。

 2005年4月7日から10日、米ジョージア州オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで開催されるマスターズトーナメントを見れることになった。オーガスタで泊まったホテルは、線路の近くで、明け方ちかくに列車が通ると、プッポー!とラッパのような汽笛が鳴り、目がさめた。

  オーガスタの天気は気まぐれで、その日も雨でなかなかはじまらなかった。ようやく雨があがり、会場にいくと白亜の建物がむかえてくれた。

 

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 参加証を首にさげて、会場でウロウロしていると、初老のアーノルド・パーマーがゲストにサインをしているので、わたしも帽子にサインをしてもらった。

   コースのほうに出てみると、小高い松の樹々のしたに青々とした美しい芝生がひろがり、馬糞のにおいがした。芝を養うために土に馬糞をまぜているのかもしれない。初めてなので、全体のロケーションがわからないので、とりあえず一番ホールにいってみた。

 

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 人垣を縫って、前に出て待っていると、タイガー・ウッズの番がやって来た。当時29歳の全盛時のタイガー・ウッズである。

 タイガー・ウッズは、ドライバーショットを打つまえに何かつぶやいているように見えた。あとでガイドの人に聞いてみると、あれは”Bless me!"とつぶやいているという。真偽のほどはわからないが、何かに祈りを捧げているように見えなくもなかった。

    タイガーのドライバーショットは信じられないような勢いで青空に吸い込まれるように、はるか遠くに飛んでいった。早速、タイガーの”追っかけ”をしようと思ったが、タイガー・ウッズは早足でファウェーを歩いていくのでとてもついていけない。

 オーガスタ・ナショナルはよく手入れされた素晴らしいコースであるが、もっとも美しいのは、やはりアーメンコーナーといわれる、十一番、十二番、十三番ではなかろうか。 

 燃えるような紅や赤、白のアザレアが咲き誇る植栽をバックに、緑の芝生のところどころに、クリークが張り巡らされた一帯は、まさに神に祝福された聖地のように美しい。アザレアの花言葉は"恋のよろこび”というらしいが、このアーメンコーナーは数々の悲劇がくりかえされた名物ホールでもある。わたしもその光景に見惚れたように、一番長くいたように思う。

 

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 最終日、なだらかな丘のような十八番ホールの上で緑の布とスチールパイプでできた携帯用の椅子にすわってタイガーがあがってくるのを待った。C.デイマルコとのプレーオフの末、タイガーが勝利した瞬間、ゲストが大歓声をあげて、スタンディングオベーションで祝福する。アスリートは、超絶的なパフォーマンスによって人々を熱狂させるが、タイガー・ウッズもその例外ではなかった。

 今回、その栄誉を松山英樹が受けたことは、とても素晴らしいことと思われる。

 

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 その晩、オーガスタ・ナショナルのロッジで食事をした。今年のマスターズでは実況担当したTBS小笠原亘アナウンサーが感極まり55秒間沈黙したことが話題になったが、1976年以来マスターズを中継してきたTBSの社長や解説の中島常幸氏、また、なかにし礼ご夫妻(?)もいらした記憶がある。

 その後、オーガスタではマスターズの見学だけだったので、その年の全米オープンが開催される地まで飛んで、開催コースのPINEHURSTでプレーさせたもらった。いうまでもなく、結果は散々であった……。

 

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    #松山英樹 #オーガスタ #マスターズ #タイガー・ウッズ

    #TBS

 

「錦光山宗兵衛伝」の秘密:The secret of Kinkozan Sobei ,the story of a Awata Kiln

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「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」

 
 「錦光山宗兵衛伝」の秘密とはなにか。

 秘密といっても自らの不手際をさらすようなもので決してほめられるようなものではありません。

 まず冒頭の画像をご覧ください。そこに拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の表紙をふたつならべてあります。よく見比べていただきたいと思います。違いがおわかりになりますでしょうか。

 

 正解は「錦光山宗兵衛伝」の文字が左側が金箔、右側が銀箔になっているということであります。

 なぜこのようなことになったのかと申しますと、当初、この部分は白抜きにしようと考えていたのですが、拙著のなかで触れておりますように「茂兵衛氏の代に幕府の御用達となり、錦色燦爛(さんらん)とした見るも見事な絵模様の陶器を納めたのでその時から特に錦光山の姓を与えられこれを称するに至った」と錦光山と金彩とは縁が深いこともあり、その錦光山の評伝であれば金の箔押しにしたほうが良いのではないかと思いいたりました。

 そこで色味を調べまして、村田金箔の艶消し金NO.105が気に入り、その金を箔押しにすることにしたのですが、あいにく印刷会社の方にその在庫がないということで、仕方なく銀の箔押しにすることといたしました。銀の箔押しにしましたところ、銀は銀で闇夜に輝く月のごとく冴えた色合いがあり、それはそれで魅力的に感じられましたので印刷にかけました。

 ただ錦光山と金とのむすびつきを考えますと、なにか釈然としませんでしたので、迷った末に費用はすべてこちらで持ちますのでということで、印刷会社に一旦500部で印刷を中止してもらい、村田金箔の艶消し金NO.105を10キログラムばかり仕入れてもらい、残りはすべて金の箔押しで印刷いたしました。

 こうして「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」は金の箔押しと銀の箔押しという微妙に違う本が流通することになったのであります。

 

 この金の箔押しと銀の箔押しの両方の「錦光山宗兵衛伝」をお持ちの方はいないと思いますが、ひとりだけいらっしゃるのです。そのかたは当時、大学院で京薩摩を研究されていて、2018年11月に初めてお会いしたときに、私の拙著をぼろぼろになるまで読み込んでおられて、わたしはそこまで読んでいただいたことにいたく感激・感動して、持っておられなかった金の箔押しの拙著をお贈りさせていただいたのです。

 その方、原さんは錦光山宗兵衛の「花尽くし」を主に研究されて、その生成過程やヨーロッパや中国との関係、製作時期を推定した素晴らしい論文を書かれました。その内容は公表されておりませんので、ご紹介できないのは残念ではありますが、わたしはとても素敵な業績とリスペクトしております。

 

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原さまと宗兵衛伝

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原さまと宗兵衛伝

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原さまの論文

  次に秘密というよりも、偶然といったほうがいいかと思いますが、わたしが拙著を上梓いたしましたのが2018年2月13日で、その日はわたしの祖父の七代錦光山宗兵衛の生誕150年の誕生日と重なったことです。

 それはまったくの偶然なのですが、あまりにも出来過ぎていて、なにか目に見えない力に導かれたような運命的なものを感じました。

 そしてその日から3年が経ったいま、わたしは「錦光山宗兵衛伝」の姉妹編ともいうべき、錦光山宗兵衛をめぐる家族および女性たちを描いた外伝的なものを上梓できたらと考えております。

 

 

 最後に拙著の表紙について触れましたので、内容についても目次とプロローグの引用という形で触れさせていただきたいと思います。すでに拙著をお読みのかたは下記は省略でお願いいたします。

 目次は下記の通りです。

 

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 次にプロローグを引用いたします。

 ロンドンでの運命的な宗兵衛との出会い

 錦光山宗兵衛といってもいまや知る人はほとんどいないであろう。錦光山宗兵衛というのは京都粟田焼の窯元である。その子孫である私にとっても、錦光山宗兵衛および粟田焼はもはや歴史の遥かかなたに没したワンダーランドとなっている。そんなワンダーランドとなってしまった錦光山宗兵衛の作品と私の出会いは妙なところで始まった。

 それは1988年11月、ロンドンのクリスティーズのオークションの下見の部屋であった。私は1987年8月にロンドンの和光証券(現みずほ証券)の現地法人ワコー・インターナショナル・ヨーロッパに赴任し、当時、機関投資家相手の日本株セールスを担当していた。十数名の機関投資家のファンド・マネージャーが私の顧客であったが、そのなかにトウシュ・レムナントの取締役のマイケル・ワットさんという英国シティの古典的なバンカータイプの気難しい客がいた。ワットさんは私の英語があまりうまくないこともあり、私をブローカーとしてほとんど相手にしてくれていなかった。そのワットさんから、ある日突然、「今度、クリスティーズで日本の陶磁器のオークションがある。そのなかに錦光山の作品があるから一緒に見に行かないか」という誘いを受けた。私は耳を疑った。皮肉っぽいワットさんからそんな誘いがあるとは夢にも思っていなかったのである。

 11月9日、私はキングストリートにあるクリスティーズの玄関前でワットさんと待ち合わせて、クリスティーズの重厚な建物のなかに入って行った。左手に近く開催される「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」というオークションにかけられる陶磁器や工芸品が展示されている部屋があった。私が目を凝らして見ていくと、陳列棚のなかに錦光山宗兵衛の作品が二つ陳列されていた。二つとも19世紀の作品で、ひとつは秋草模様の花瓶であり、もうひとつは牡丹を眺める婦人像の花瓶であった。それは、海外で私が初めて見た錦光山宗兵衛の作品であった。

 私が錦光山宗兵衛の陶磁器がロンドンのオークションに出ていることに驚いていると、ワットさんが「いまでも錦光山の陶磁器は、キンコウザン・ウエアとしてロンドンで流通している」と言った。それは私にとって衝撃であった。歴史のなかに没していたと思っていた錦光山宗兵衛の作品が古美術品として現在もなお流通し売買されているのだ。なぜ日本では忘れ去られてしまった錦光山宗兵衛の作品が海外では取引されているのだろうか。不思議だった。その後、私が1991年12月に帰国するまでの間、クリスティーズの「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」は1989年3月、1990年3月と定期的に開催され、サザビーズでも1991年3月に「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」が開催された。

 1980年代の後半は、日本経済のバブルの絶頂期であり、ロンドン全体が日本企業のファイナンスで沸き立つような活況を呈していた。私の連日サイニング・セレモニーに参加していた。そうした熱狂的な喧噪の真っ只中で、私はふとイギリス人はなぜこんなに古いものを大切にするのだろうかと思った。日本は、明治維新以降、遅れてきた資本主義国として近代化に狂奔し、古いものには価値がないものと見なし、新しい物の製造に邁進してきた。しかし、もしかしたらそれは日本の資本主義の底の浅さを表しているのではないだろうか。そんな疑問が湧いてきた。私はロンドンでバブルの余韻に酔いしれながらも、どこかで夏目漱石が明治44年に「これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである」と述べているような感じを抱いていたのかもしれない。

 そんなある日、私はいつかワンダーランドとなってしまった錦光山宗兵衛の世界へ遥かなる旅に出てみようと思うようになっていた。京都で将軍家御用御茶碗師であった錦光山宗兵衛の陶磁器が、なぜ、いまロンドンで流通しているのか、どのような経緯でそのようなことになったのか、その歴史をひもといてみようと思ったのである。それは、私の出会ったことのない曾祖父と、祖父の錦光山宗兵衛との邂逅(かいこう)の旅でもあるだろう。

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    #京焼 #粟田焼 #京薩摩 #焼き物 #陶芸

 #錦光山宗兵衛 #錦光山和雄

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「アートがわかると世の中が見えてくる」拝読記

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前崎信也著「アートがわかると世の中が見えてくる」

   京都女子大学准教授の前崎信也先生の「アートがわかると世の中が見えてくる」を読んで、久しぶりに目からウロコが落ちる思いがしました。前崎信也先生のこの本で目からウロコが落ちたことはいくつかありますが、それは読んでみてからのお楽しみということで、ここでは二つに絞って取り上げさせて頂きたいと思います。そのひとつは、歴史的に見ると、優れた美術品は権力者や富者および宗教施設に集まるというものです。現代ではこれに博物館、美術館をくわえることができるでしょう(これも前崎信也先生の本を読んで目からウロコが落ちることのひとつです)。これは身も蓋もない話のように思われるかもしれませんが、やはり歴史的事実であるといえましょう。

 もうひとつは、宗教施設のなかで臨済宗の寺院に優れた美術品が集まっているということです。

 前崎先生は、なぜ宗教的施設に美術品が集まるのかという点について「有名な画家が一所懸命描いた絵画や彫刻の多くが宗教的なものだからです」と書いておられます。同時に「飛鳥時代奈良時代の美術品は、法隆寺などの奈良の寺院や正倉院にあるものがほとんどです。平安時代から鎌倉時代にかけての美術品の多くは、最澄が興した比叡山延暦寺を本山とする天台宗空海が興した高野山を本山とする真言宗の寺院が所有しています。そして室町時代から江戸時代くらいまでの日本美術の名品の多くは、臨済宗の禅寺が所有するものが多いです。逆に、信者数から見れば日本を代表する宗派と言える、浄土宗や浄土真宗といったお寺には、臨済宗ほどには美術の名品が所有されていません」と書いておられます。これはとても面白い指摘であると思います。 

 前崎信也先生は、ご著書の中で日本と中国の関係にも触れており、また、現在、異常気象やパンディミックという事態のなかで、わたしが、飢饉や疫病などが流行り、南北朝の動乱応仁の乱という戦乱があった室町時代に関心を持っていることもあり、ここでは室町幕府の三代将軍足利義満(1358~1408)を例に、権力者がどのように美術品を集めたのかその経緯を見てみたいと思います。次いで、寺院のなかでなぜ臨済宗の寺院に美術品が多いのか、仏教の流れのなかでフォローしてみたいと思います。

 まずは、三代将軍足利義満です。 

 

  義満は、室町幕府の最盛期の将軍であるだけでなく、公家文化を若くして身につけ、武家として従一位太政官という最高の官職まで登りつめ、その半年後には出家したという人物です。

  NHKの「京都 千年蔵」によると、出家した十一年後に、義満は大原の僧四人を引き連れて、天皇家の法要で皇族や公家以外に門外不出であった秘曲という声明(しょうみょう)を唱えたといいます。これは武家出身の義満が、まだ南北朝の動乱のさめやらぬ時代において国家的な仏事を仕切ることで、公家だけでなく宗教界においても、国家の頂点に立つ絶対的な権力者であることを示そうとしたものといいます。

  また出家した二年後に富と権力を誇示するために、のちの鹿苑寺金閣となる北山第の造営に着手し、明の使者を北山第に招き、明朝と通商を結び、日本国王の号を贈られ、日明貿易で莫大な富を手に入れたといいます。

  こうして室町幕府が、日明貿易を一手に掌握したことにより、中国の舶来品が次々と日本に入ってきて、義満が造営した花の御所といわれる室町第、さらにはのちに「金閣寺」と称される舎利殿のある北山第には、財力に物をいわせて集めた「唐物」といわれる中国舶来の高価な仏像、陶磁器、絵画、彫刻、調度、書物などが所せましと陳列されていたといいます。

  当時、中国の文物はおおいに珍重され、武家も公家も唐物として崇拝し、競って手に入れようとしていたのです。こうした唐物を室町幕府が一手に掌握したことは、室町幕府にとって大いに役立ったといいます。

  というのも、室町幕府が政治権力を握ったとはいえ、公家文化の象徴である朝廷の文化的・伝統的権威を崩すことは容易ではなかったからです。それを崩すためには武家の文化を創造し、多くに人々に納得させる必要があったのです。そうした状況のなかで、大陸の文物が大量に流入することにより、朝廷の文化的優位性を相対的に弱めることができたのです。義満が「花の御所」の室町第や「金閣」を建て、そこに唐物を陳列したのは伝統的な公家文化をしのぐ武家の文化を見せる必要があったのでしょう。

  ところで、義満は、機嫌のよいときは軽口をたたき愛想もよかったそうですが、大変な気分屋で一度機嫌をそこねると、大変な仕打ちをして没落する家臣も多かったといいます。こうした驕慢な権力者であった義満ですが、その一方で学問、芸能、遊宴、旅行など幅広い分野に通じ、和歌、和漢連句、猿楽、蹴鞠、香、立花、茶の湯などを好んだといいます。とりわけ義満が十七歳のとき、新熊野社で観阿弥の大和猿楽を見て以来、当時十二歳の美少年、藤若、のちの世阿弥を寵愛したことにより、それまで「乞食の芸能」といわれていた猿楽が武家の式楽となり、格式をもつにいたり、のちの能につながっていったのです。

  こうして義満は、当時の最高の知識人であった禅僧などを介して中国文化と武家風が結合した、都会的な北山文化をつくりだし、ひいてはのちの七代将軍義政の東山文化につながっていくのであります。若いころから公家の教養を身につけてどこか華やかさをもつ義満は、文化、芸能をたくみに使って自らの権力を演出する才能に恵まれていたといえるかもしれません。室町時代は、富をたくわえる人々がいる一方で、飢饉や疫病、度重なる戦乱で生活に困窮し、乞食、非人におちる人もいた乱世の時代でありましたが、そうした乱世の時代にあって義満は、毀誉褒貶はいろいろあるとしても希代の権力者といえるのではないでしょうか。

 

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足利義満 NHK 「京都 千年蔵」より

   次になぜ臨済宗の寺院に優れた美術品が多いかということです。

 

  平安時代末から鎌倉時代にかけて、いくつかの新しい仏教が興ったそうです。

  そのなかで法然の浄土宗、親鸞浄土真宗日蓮日蓮宗などは、釈迦入滅二千年後の末法となった暗黒のこの世にあっては、一仏にたいして念仏を唱えることのみが救済の道であり、他の一切の仏神、いかなる修行も善行もなんの意味もないとして否定し斥けたといいます。

  また仏は地上のいかなる権力をも超越する存在であると説いたこともあり、鎮護国家を旨とする南都(奈良)の興福寺や北嶺の比叡山延暦寺などの既存の伝統仏教寺院から激しい弾圧、迫害を受けたといいます。このため、法然は土佐へ、親鸞は越後へ、日蓮佐渡流罪となったといいます。

  もうひとつの鎌倉新仏教である禅宗は、仏とは外部に存在するものでなく、自分のなかにある仏性を座禅によって発見することであり、それが成仏する道であると説いたといいます。また臨済宗を日本にもたらした栄西は、仏法と王法を対等とみなして両者の相互依存を説いたといいます。

  俗権との親和性があり、また草深い野から身を立てた武士と気風があったのか、臨済宗は時の北条政権から庇護を受け、建長寺円覚寺など鎌倉五山といわれる臨済宗の寺院が次々と建てられたといいます。

  鎌倉幕府滅亡後も、臨済宗は、足利尊氏の帰依を受けたこともあり、南北朝の動乱期に入って勢力伸長が著しく、南北朝の動乱で対立した後醍醐天皇崩御すると、足利尊氏は夢窓国師の助言もあり、また自らの権威を誇示するためにも、後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を開基し、夢窓国師を住持としました。

 さらに室町幕府は、幕府を開いた京都において、南禅寺を別格として先の天龍寺相国寺建仁寺東福寺などを京都五山と定めてその庇護下に置きました。このため、幕府の庇護下にある五山寺院は大いに発展し、既成の伝統仏教である比叡山延暦寺や南都の興福寺すらも圧迫するようになったといいます。

 これには無類の庭好きで山水癖があるとまでいわれていた臨済宗の高僧、夢窓国師の果たした役割も大きかったのでしょう。

 

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夢窓国師

  一方、同じ禅宗でも、道元が日本にもたらした曹洞宗は、仏法を地上の権威を超える法とみなし、俗権と距離を置く姿勢があったこともあり、京都から遠く離れた福井に永平寺を開くなど地方の布教につとめ、「臨済将軍、曹洞土民」と称されたといいます。

 こうして時の幕府と近かった臨済宗は、先に触れたように、三代将軍足利義満の代になっても、日明貿易の交渉役に禅僧を活用するなど関係は密接で、禅宗風と武家風が一体となった鹿苑寺金閣、さらには七代将軍足利義政慈照寺銀閣に繋がったのであります。

  かくして、南北朝の動乱応仁の乱という戦乱、飢饉、疫病が蔓延した乱世である室町時代に、能をはじめ茶の湯、立花、俳諧連歌、造園など日本を代表する文化を生み出したといいます。

  気候変動、パンディミックなどまるで末法の世が再来したような今日、果たして何か新しい文化を生み出していくことができるのでしょうか、それとも、地球環境の悪化によって、人類滅亡の道をただひたすら突き進んでいってしまうのでしょうか。

 

      救われるのは一輪の花だけだろうか

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   最後にわたしが前崎先生とご縁ができた経緯を簡単に触れさせていただきたいと思います。

  最初の出会いは、今から11年前、当時の愛知県陶磁資料館で近代国際陶磁研究会の「明治の京都」というシンポジュウムで前崎先生が「三代清風与平」のことを研究発表されていて名刺交換をしたことでした。その後、先生から連絡がありまして、わたしの祖父で京都粟田焼窯元であった錦光山宗兵衛関係写真を立命館大学アートリサーチセンターにてアーカイブス化していただきました。

 

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   拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝』の表紙に使用した

   立命館大学アートリサーチセンターでアーカイブス化した

錦光山宗兵衛の写真

©立命館大学アートリサーチセンター 錦光山和雄家蔵


 アーカイブスしたおかげで、2015年の秋に、当時京都の清水三年坂美術館の学芸員をされていた松原史さんから清水三年坂美術館で開催する「京薩摩展」に錦光山宗兵衛関連の写真を使わせてほしいという依頼があり、その仲介の労を取っていただいたのが前崎先生でありました。

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松原史さま

 その後、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を出版するに際して、前崎先生に相談しましたところ「小説は五年もすると忘れられてしまいますが、もし著書を研究者に長く読んでもらいたいのであれば、文献資料の引用を多用し、その出所を一つひとつ丁寧に注記することです」とアドバイスしていただきました。

 また拙著でも紹介させていただきましたが「京薩摩で金彩が多用されたのは、ロウソクやガス灯などの薄暗い光を金の光沢で反射して部屋を明るくする効果があったから」というアドバイスをいただきました。

 前崎先生の何気ない物事を違った角度から見る、卓越したセンスにはただただ驚くばかりでした。それは刷り込まれた常識をもう一度見つめなおすよい機会となりました。先生のこうした卓絶したセンスは、中国、イギリスに留学された幅広い学識とあまたの美術・工芸品を見てこれらたことによりもたらされたものと思われます。そうしたセンスがご著書の「アートがわかると世の中が見えてくる」の随所に見られます。

 ここに改めて前崎信也先生に感謝の意を表させていただきたいと思います。 

 

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金彩のまばゆい錦光山宗兵衛の京薩摩

錦光山和雄家蔵

 ©錦光山和雄All Rights Reserved

 

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アーティゾン美術館で「琳派」の系譜を見る

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 アーティゾン美術館の「琳派印象派 東西都市文化が生んだ美術」展を見てきた。

 同展によると、琳派というのは、京都の裕福な呉服屋・雁金屋の次男で尾形乾山の兄であった尾形光琳(1658-1716)の「琳」から付けられた名称であるが、師として直接教えを受けたのではなく、残された絵を見て学ぶ、「私淑」という形で繋がれたきたものだという。

 その始まりは、江戸時代初期画家の俵屋宗達(1570-1643)であるという。彼の代表作は「風神雷神図屏風」だが、それは後期の展示らしく、その代わりに、「舞楽図屛風」が展示されていた。

 「舞楽図屛風」は、仮面をかぶって舞う姿が、どこか中世の不気味さを感じさせるとともに、また一方で申楽のような滑稽な面白さを感じさせえる不思議な絵のように思われた。それにしても、宗達の絵には、どこか雄渾な安土桃山の気風があり、彼が桃山時代から江戸時代に日本美術の流れを橋渡ししたという説もうなずける。

 

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 ところで俵屋宗達は、京都の上層町衆であり、鷹が峯で漆芸や書、陶芸で有名な本阿弥光悦(1558-1637)の引き立てで絵師として名を成したそうだが、本阿弥光悦家は足利尊氏の時代から刀剣の鑑定をしてきた名家だという。

 室町時代といえば、足利政権の基盤が弱く、世は乱れに乱れたそうである。いわば漆黒の闇のなかで鬼が跋扈する気配を感じるような不安に満ちた時代であったのではなかろうか。私にはそれは世界の分断が進み、コロナという疫病が蔓延して、人々が失職して飢えるのではないかと恐れ、不安にさいなまれている今日に似ているような気がしてならない。

 それはともかく、室町時代は乱世でありディストピアの世界であったにもかかわらず、面白いのは、公家文化の呪縛に苦しみ、既成の貴族文化に一矢を酬いたいと望んでいた、三代将軍義満が若き日の世阿弥を寵愛し、そうしたなかで能、狂言茶の湯、生け花、連歌、庭園などの日本文化が生まれたことである。 

 さらに義満の寵愛を受けた世阿弥佐渡島に配流されるなど不遇の晩年を迎えるが、河原乞食とさげすまされた申楽の地位を引き上げようと生涯を賭して懸命に努力し、ついには能として貴族文化をしのぐ幽玄の世界を築き上げたことである。

 そこに室町時代の奇妙な面白さがあり、人間という不可思議な存在の一面を知るヒントが隠されているのではないだろうか。

 そしてそれは、それまでの貴族文化とは異なり、武家文化と渾然一体になりながらも、町衆の文化の誕生といえるのではなかろうか。それが可能になったのは、京都や堺に裕福な町衆が登場したことであり、「琳派」はそうした流れのなかで育まれてきた美術といえるのかもしれない。

 さて尾形光琳の作品では「孔雀立葵図屛風」が展示されていた。立葵のすっつくと天に伸びるたたずまいと羽を広げて丸みを帯びた孔雀の対比が際立っているように思われた。

 

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 さらに琳派の系譜をみてみると、姫路藩主の酒井家の出で江戸琳派を興したといわれる酒井抱一(1761-1828)の代表作「夏秋草図屏風」は展示されていなかったが、その弟子である鈴木其一(1795-1858)の「藤、蓮、楓図」および「富士筑波山図屏風」が展示されていた。富士山や筑波山の高峰もさることながら、筑波山を望む湖畔の墨で描かれた茅屋(ぼうおく)に風情をそそられるのはどうしてだろうか。

 

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 また同じく酒井抱一の弟子で鈴木其一の弟弟子にあたる池田孤邨(1803-1868)の大胆な構図の「青楓朱楓図屛風」も展示されていた。

 

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 最後に1点だけ印象派のモネの「黄昏、ヴェネツイア」を上げておこう。この絵は、まさに印象派らしく筆のタッチが見られ、建物の輪郭も光のなかに溶け込んでいる。

 

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