錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

黎明館「華麗なる薩摩焼」展に錦光山宗兵衛(6代&7代)作品が展示されています。

Meiji  Restoration  for  SATSUMA  Ware

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 2018年12月25日、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている「華麗なる薩摩焼」展に学芸員の深港恭子様にご招待を受け、オープニングレセプションに参加してきました。

 式典のあと、会場に入ってまず感じましたことは、

 豊臣秀吉朝鮮出兵である文禄・慶長の役(1592-1598)の際に島津義弘公が連れ帰ってきた陶工たちが作った、いわゆる火計手(ひばかりで)といわれる白釉茶碗の素朴な美しさでした。

 さらに「薩摩肩衝(かたつき)」といわれる茶入のなんとも言えない微妙な反りの形にこころ動かされました。関ケ原の戦いで敵中突破をした勇将島津義弘公は薩摩に逃げ帰り、江戸には登城しなかったそうですが、義弘公に代って「薩摩肩衝」が徳川家や有力大名に贈られ、その代役をはたしたと思うと、少し可笑しくなりました。

 加えて、島津義弘公はあまりに勇猛で朝鮮でも鬼島津と呼ばれたそうですが、その鬼島津の義弘公は、朝鮮から連れ帰った陶工たちを手厚くもてなし、士分の資格を与え、門を構え、塀をめぐらすことを許す半面、その姓を変えることを禁じ、朝鮮の言葉や習俗を維持することを命じたといいます。薩摩の陶工たちもそれを守り続けて来たといいます。薩摩のその遥かな歴史にも胸に響くものがあります。

 また白薩摩誕生の経緯にもこころ惹かれました。藩命により白色原料の探索が行われ白土を発見、それにより白薩摩に上絵付けをする錦手技法が遅くとも18世紀中頃までには確立し、それらの意匠が徐々に洗練されていって薩摩錦手が完成していき、幕末から明治初期にかけての万博に大好評を博する下地が出来て行くプロセスがとてもわかりやすく展示されています。

 そして明治維新の前年(1867)、日本が初めて参加した第2回パリ万博、明治6年(1873)のウィーン万博、明治9年(1876)フィラデルフィア万博と高い評価を得た薩摩錦手は販路を拡大していき、海外では「SATSUMA」と呼ばれるようになっていきます。本展覧会では第2回パリ万博に出品されて現在ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵の作品が国内で初めて展示されており極めて貴重な機会であり、とても充実した展覧会であると思います。

 こうした数々の展示品のなかで、六代錦光山宗兵衛が明治11年(1878)パリ万博に出品した「錦手花鳥図陶板飾堆朱箪笥」が展示されています。製作年がはっきりした六代宗兵衛の作品が展示されたことを素直に喜びたいと思います。特別許可をいただきまして撮影して参りました写真を添付いたします。また錦光山の「絵図帖」および東京国立博物館の「明治150年」展で展示されていた七代錦光山宗兵衛の「上絵金襴手双鳳文獅子紐飾壺」も展示されておりますが、照明の関係でこの作品の持つきらびやかさが出ていないのが惜しまれます。

 午後から「華麗なる『SATSUMA』の展開ー日本陶磁器の海外輸出の視点からー」という国際シンポジウムが開催され、ヴィクトリア&アルバート博物館のルパート・フォークナー氏がV&Aの歴史とともに日本陶磁器コレクション収集の経緯のお話があり、また九州国立博物館副館長の伊藤嘉章氏から万博時代の日本陶磁器の受容と評価の推移のお話がありました。

 最後に鹿児島大学教授の渡辺芳郎氏から「漢字の薩摩焼とローマ字のSATSUMAとは意味が違う。SATSUMAというのはヨーロッパで名付けられた日本の一群の陶磁器をいう。SATSUMAは素地(土)と絵付けの組み合わせで3つに分類できる。①は素地絵付けとも鹿児島のもので、その代表は沈壽官②は素地は鹿児島、絵付けは他地域で、その代表は藪明山③は素地も絵付けも鹿児島以外の他地域で、その代表は錦光山」という旨のお話がありました。

 このお話に私は非常に感銘を受けました。というのも、京薩摩は鹿児島の本薩摩を真似したものではないかという見方が一部にありますが、パリ万博で好評を博した薩摩焼のことを意識し、刺激を受けたことはあるかもしれませんが、京薩摩の意匠は色絵陶器の完成者・野々村仁清の流れをくむ、京都粟田焼の伝統的な意匠を洗練化しかつ欧米の嗜好を考慮したものであり、似たように見えるのは錦手、金襴手という技法にあると言えるのではないでしょうか。

 私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いてありますが、寛政5年(1793)に三代錦光山喜兵衛が薩摩の陶工である星山仲兵衛、川原芳工に錦手の技法を伝授したといわれています。かなり昔から京都と薩摩はご縁があるのです。

 六代錦光山宗兵衛が開発した京薩摩は、瑠璃地金彩のなかに窓を開け、そこに花鳥図や人物図などを描いているのですが、こうした瑠璃地金彩の窓絵という作品を私は本薩摩ではほとんど見かけておりません。

 このため私は本薩摩と京薩摩は長い歴史のなかでお互いに切磋琢磨した間柄にあるのではないかと考えています。その意味で本薩摩と京薩摩のご縁、関係のお話を伺う予定でありました15代沈壽官様とお会いできなかったことは残念ではございましたが、次の機会を楽しみに待つことにいたします。

 なお、この展覧会の最大の見どころは、15代沈壽官様の曾祖父さま、12代沈壽官様が製作いたしまして島津忠義公が最後のロシア皇帝ニコライ2世に贈り、現在エルミタージュ美術館の所蔵になっております「錦手四君子茶壺形蓋付壺」が120年振りに里帰りして展示されていることであります。そうした記念すべき展覧会におきまして島津家第33代当主・島津忠裕様にご挨拶できたことは望外の喜びであります。またV&Aの主任学芸員のルパート・フォークナー氏にもご挨拶できました。

 時空を超えたご縁、それこそが大切だとこころに沁みた鹿児島への旅でした。

 

 

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world 

 

 

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