錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

台湾で今も愛される日本人作家・西川満

f:id:woodsidepark60:20180723174016j:plain

f:id:woodsidepark60:20180723173850j:plain

f:id:woodsidepark60:20180723173736j:plain

f:id:woodsidepark60:20180723173630j:plain

 

f:id:woodsidepark60:20180723173438j:plain

  西川満と言っても、その名前を知っている人はほとんどいないのではないでしょうかところが台湾では若い漫画家の洪福田さんが「我的西川満赤嵌記」という漫画で西川満先生のことを描くほど知られ愛されている。添付してある画像を見ていただくと漫画の西川満先生の顔は生き写しと言えるくらいよく似ている。そしてこの漫画で西川満先生は「自国の歴史、文化を愛せ」と台湾人をしかっている。なぜ、こんなことが起っているのだろうか。

 それは明治43年(1910)、3歳で台湾に渡った西川満先生は、台北市の古くからの繁華街である大稲テイに代表される台湾の風俗文化を愛し、それらを題材にして、また台湾語である閩(ミン)南語等も自分の詩や小説に取り入れて書いているからである。とりわけ台湾に多くの人が渡って来た福建省の漁師などの海の民の女神である媽祖様には信仰ともいえるほど心酔し詩にもよく書かれている。オランダ支配、漢民族支配、日本の植民地支配、国民党の戒厳令下の支配と続いた台湾人にとって、自分たちの風俗文化をこんなにも愛し、文学として取り上げてくれる人はなく、戒厳令が解除された1987年以降の民主化の過程の中で、それまで日治時代の文化は台湾とは無縁だとする国民党が作り上げてきた神話から脱却して、「西川満文学」を見直し、そこに台湾独自のアイデンティティを見出すことができるようになったからである。

 今回、会津若松市福島県立博物館で8月19日まで「西川満展」が国立台湾文学館と共催で開催されており、西川満先生の美意識で彩られた数々の私家本が展示されているほか、昨日7月22日にフォーラム「台湾と会津 西川満から現在まで」が開かれた。その中でご子息の西川潤先生と「西川満ー台湾文学の視座からー」の著書のある台南市の真理大学名誉教授・張良澤氏、赤坂憲雄福島博物館館長がお話された。

 西川潤先生のお話によると、日本が台湾を支配した当時の台湾では、日本人と台湾人は別の社会集団を形成していたそうだが、西川満先生は差別をせずに、またお父様の経営していた会社も台湾との合弁会社で、若い台湾人も積極的に採用したそうです。普段怒ったことのない西川満先生は、国民党政府が台湾人を弾圧した1947年の2・28事件に大変怒られたと言います。それには会津の「反骨」精神があずかっているとのことです。西川満先生は、敗戦で日本に引き揚げた後の経済的に苦しい中でも台湾人の亡命者などを温かく受け入れたそうです。また台湾の1948年から87年までの戒厳令時代には先にも述べたように日治時代の文化は台湾と無縁とする国民党製の神話、また台湾文化は中国文化だとする日本側の虚像にまどわされることなく台湾の人々と交流を続けられたそうです。晩年の西川満先生は自己のアイデンティティを探求、幾度となく自分の故郷である会津若松を訪れ、その成果は「自伝」「わがふるさと会津」に祖父秋山清八の思い出とともにまとめられています。

 西川潤先生は、この画期的な展覧会をきっかけとして日本の東北および会津が台湾との新しい絆、交流が進展していくことを祈りたいという言葉でむすびとされました。昨年台湾から訪日した人数は460万人で、訪問先のひとつに台湾と縁のある土地、台南市烏山頭ダムを命がけで作り嘉南平野を肥沃な農地にして100万人の農家の暮らしを豊かにした八田與一氏の出身地である金沢があるそうで、これを機に西川満先生を慕う多くの台湾の人々が、新しい聖地として会津を訪れ、日台交流が進展することが期待されます。なお、嘉義農林学校の甲子園出場を映画にしたKANO 1931海の向こうの甲子園」のなかでも台湾での優勝パレードを中止して完成した用水路を見に来た選手たちを八田與一が励ますシーンが描かれています。

 張良澤先生から面白い話がいくつかありましたが、なかでも「台湾文学とは台湾で発表されたもので、かつ台湾の風土を愛するもの」とのお話があり「台湾文学を作ったのは西川満先生である」という発言にはそこまで評価されているのかと心に響くものがありました。

 赤坂福島博物館館長は「今年は戊辰戦争から150年に当たり、戊辰戦争に負けた会津は近代を”賊軍”の汚名を負わされて生きることになり、会津士族の末裔たちは敗者の精神史を背負って、立身出世の閉ざされた東京ではなく、奄美・沖縄に渡った人々がいた。会津士族の末裔である西川満先生が父に連れられて台湾に渡ったのもその延長線上にあるのではないだろうか。今日、西川満先生が台湾の人々から愛され、尊敬されているのは西川満先生が敗者の痛みを知っていて台湾の人々に人間的な振る舞いで接したからではないだろうか」、また「西川文学は日本文学なのか、それとも台湾文学なのだろうか。日本文学、日本文化と言っても、これから文化は国境を越えて交じりあっていく時代になっていくだろう。その意味では西川文学は私たちに明日の日本文学・日本文化を考えるきっかけになるのではなかろうか」旨のお話はきわめて示唆に富むものに思われた。

 東北の雄藩であった会津の士族の末裔の西川満先生が、これからつなぐ台湾との交流、それがどのような地平を切り拓いていくのか期待をもって見守っていきたい。なお新宿にある台湾料理の名店「山珍居」には西川満先生の額が飾られている(添付画像参照)。

 

 

#西川満 #台湾 #戊辰戦争 #会津藩 #台湾文学 #福島博物館 

会津若松 #福島 #台北 #台南 #洪福田 #我的西川満赤嵌記

張良澤 #西川潤 #赤坂憲雄 #山珍居 #国立台湾文学館

八田與一 #烏山頭ダム #錦光山和雄   #真理大学台湾文学資料館

#華麗なる島 #日台フォーラム #媽祖 #秋山清八 #KANO1931

#嘉義農林学校  #台湾映画 #台南文学 #大東和重  #日曜日の散歩者

#文学 #詩

#海の彼方 #台湾万歳 #黄インイク