錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(2) 樋口一葉終焉の地

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 根津神社をお参りして不忍通り池之端まで歩き岩崎邸庭園の石垣が続く「無縁坂」に至る。無縁坂を眺めて本郷が台地であることを実感する。

 この無縁坂は、鴎外が大正4年に書いた『雁(がん)』の舞台である。主人公の医学生岡田青年が、ある日この坂を散歩していると、肘掛窓が開いていて銀杏返しのさびしげな美人がそとを眺めている。高利貸の末造の妾お玉である。偶然、目があいお玉が微笑する。いつしかお玉は岡田に淡い慕情を抱くが、不忍池でたまたま投げた石が雁に当たって死んでしまったように、不運にもその思いを伝えることなく岡田は洋行してしまう。

 鴎外は青年とお玉の不運な淡い交情を描いたのかもしれないが設定にやや無理があるような気がする。無縁坂を登りきると、岡田青年が通っていたであろう東大の鉄門があり、赤レンガ色の東大病院が建ち並んでいる。

 

 路地を曲がり春日通りに出て、本富士警察署前を通り本郷三丁目に至るが赤門には向かわない。今回の文豪ミニツアーでは、東大構内の「三四郎池」は素通りである。素通りだが、漱石明治41年朝日新聞に連載した『三四郎』のことに少し触れておきたい。池畔で三四郎は美禰子(みねこ)を見かける。司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』では美禰子のことを『このタイプの女性は「殆ど無意識に、天性の発露のままで男を虜にする」のである』と漱石があざやかに美禰子を造形したと述べている。三四郎池は三四郎とともに美禰子をあざやかに思い起こさせる。

 その代わりに真砂坂上近くの「文京区ふるさと歴史館」に行く。同館の白眉は、樋口一葉の『たけくらべ』の真筆版などが展示されていることである。一葉は24年余の短い生涯のうち、少女時代を本郷5丁目の「桜木の宿」、18~21歳までを菊坂町、終焉の地は丸山福山町と約10年間文京の地で過ごしたという。

 

 一葉の地を訪れる前に「文京区ふるさと歴史館」のすぐ近くにある坪内逍遥の寄宿先である旧真砂町18番地に立ち寄った。逍遥はここに明治17年から約3年間住み、のちに近くの旧真砂町25番地の借家に移り住んだ。その後、ここは明治20年に旧松山藩主久松家の育英事業として「常磐会」という寄宿舎となった。この「常磐会」は炭団(たどん)坂という転げ落ちそうな急勾配の坂の角の崖の上に建っている。

 

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 写真協力:原あゆみ氏

 その急坂の炭団坂を降りて細い道をしばらく行き左折すると、両側の家の軒先がせまるような狭い路地があり、丁度先程の「常磐会」の崖下に位置するところに「樋口一葉の菊坂旧居跡」がある。前年に父則義が病没し生活が苦しいなか、明治23年5月一葉18歳のときに母たき、妹くにをこの菊坂の長屋に引き取り、針仕事、洗い張りなどをしながら細々と暮らしたという。崖下に石段があり、その前が石畳になっており、そこに緑のペンキで塗られた共同井戸がある。一葉も含めて長屋の人たちが共同で使ったのであろう。青く塗られたポンプがあざやかでいまでも使われているような錯覚を引き起こすが一葉の頃はつるべで汲み上げていたのであろう。

 

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 道一本隔てた通りに「一葉ゆかりの伊勢屋質店」がある。先の菊坂の長屋に移り住んでからも、たびたびこの伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりしたという。明治26年5月2日の日記に「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。」と記されている。

 

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」によると、父の樋口則義が生きていた時から一葉の生活は楽でなかったという。なぜかというと、父の樋口則義は、祖父八左衛門の志を抱きながら甲斐国の一介の農民として生涯を終えた無念をはらすべく、借金をして士族の株を買ったものの、その翌年に維新で幕府は崩壊し士族として出世するという夢は潰えてしまい、その借金が明治後も持ちこされてその返済に苦しんでいたという。そうしたなかで、一葉の兄が病死し、父の則義は荷車請負業事業が失敗、失意のなかで病死する。

 一葉は戸主となり一家を支えていくことになる。針仕事や洗い張りなどの内職では、親子三人生計を立てていくことは難しい。一葉は小説を執筆してこの経済的苦境を突破していくことを決意したという。それは士族の娘としての一葉のプライドであり、立志の夢でもあったであろう。

 それから一葉は、必死につてを求めて、妹くにの知人の兄、朝日新聞の小説記者、半井桃水(なからいとうすい)の弟子になり、本格的に小説修行をはじめる。一葉は桃水に淡い恋心をいだいていたようだが、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎(はぎのや)で噂がたち、名門の婦女子が集まる萩の舎は世間体を慮って桃水との断絶を迫り、一葉は思いを残しながら絶交の形をとったという。

 その後、明治26年に吉原遊郭近くの下谷龍泉寺365番地に移り住み小さい荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を営むが、商売は行きづまり、9カ月で店を閉じる。商売は失敗に終わったが、遊郭近くで生身で生きる人々を間近で見るという経験が一葉の文学に大きな影響を与えたと思われる。

 

 明治27年一葉22歳のときに本郷丸山福山町に移り住む。

 丸山福山町の一葉の旧居は、菊坂下を抜けて大きな白山通りの道際にある。気をつけないと見過ごしてしまいそうだが、石碑がぽっねんと建っている。石碑には「家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有けり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらはしく心うき事多ければ得かかぬ也。」と記されている。

 家賃が高いと愚痴を言いつつも、一葉はこの地で奇跡とも呼ぶべき時期を過ごすのである。一葉はこの地で「大つごもり」を「文学界」に掲載、「たけくらべ」(文学界)、「にごりえ」(文芸倶楽部)、「十三夜」(文芸倶楽部)などの名作をわずか2年間で書き上げる。だが、移り住んで1年も過ぎた頃から胸を患い、治療も不可能なほど肺結核におかされていた。明治29年11月23日に24歳の若さで没した。一葉が亡くなった時、質屋伊勢屋の主人が香典を持ってきて弔ったという。短い生涯であったが、占師の久佐賀から妾になれば支援すると申し込まれたのに対して断固拒絶するなど、最後まで士族の娘としての矜持を持った死ではなかったのか。

 名作「たけくらべ」には「或る霜の朝、水仙の作り花を格子門の外よりさし入れおきし者のありけり。誰の仕業と知るよしなけれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思いにて、違い棚一輪ざしに入れて、淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞く、その明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かえぬべき当日なりとぞ。」の一節がある。

 これほど、一輪の花、水仙を鮮烈に描いた作品があるだろうか。水仙とともに初恋の淡く苦い思いが心に残る。また美登利は少女ながらどこかあだっぽいところが感じられる。いずれ遊女になるさだめの少女だからであろうか。そのおきゃんな美登利が水仙をいつくしむ姿が美しい。

 

 一葉の墓がどこにあるのか知らないが、水仙の花一輪たむけたい気持ちになる。

 

 最後は漱石の西片町の旧居である。一葉の終焉の地から、白山通りをしばらく行き、坂道を登ったところ西片1丁目にある。漱石明治39年にこの地に移り住み職業作家として第1作目の「虞美人草」を発表した地である。ただ約9か月後には早稲田南町漱石山房)に転居している。なお、漱石も鴎外も一葉をほめている。それが救いである。

 

 

 なお添付写真は、下から上への流れで、最後の2枚は順番が逆にしてある。

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