錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(1)子規・鴎外・漱石

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」という名著がある。この本に触発されたので本郷界隈の文豪の足跡をたどってみよう。

 

 まず最初は根岸の「子規庵」である。

 JR鶯谷駅から子規の句碑もある豆腐料理の「笹乃雪」の前を通り、地域最安値2500円などと書かれたホテルのある一角を抜けたところに「子規庵」がある。

 玄関をくぐり抜けて家のなかに入ると、奥の六畳間に子規の座机が置かれている。その座机の前の一角が取り外しできるようなっている。カリエスで左脚を曲げられない子規のための特別なしつらえだという。座机の前はガラス戸になっていて、子規はそこから家を揺るがして通る過ぎる汽車を眺めていたという。

 この子規庵は元加賀藩前田家下屋敷で、家主は隣に住む新聞「小日本」社長の陸羯南であり、子規はこの借家に故郷松山から母の八重、若くして離婚した妹の律を呼び寄せ、明治27年から明治35年に34歳で没するまで住んでいたという。

 ボランティアの方によると、この子規庵で友人知人門人約50名が集まって句会が開かれたという。こんな狭いところでと驚いていると、すべて障子を取り外し床の間に発表者が座ると入るのだそうである。その中には漱石も洋画家の浅井忠もいたことであろう。私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかでも触れているが、この三人は交流があり、浅井忠は子規庵の近くに住んでいたという。

 子規は亡くなる前日、

糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな

をととひの糸瓜の水も取らざりき

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

の絶筆三句を記したという。死の前日に心に残る絶筆三句を残す。短い生涯であるが、まったき生であり壮絶な死である。

 子規の死後、母の八重と妹の律は始末してつつましやかに生活したという。子規は「金持ち」ではなかったが「友持ち」で、友人知人門人がお金を集めて律に渡していたという。子規もさることながら、律も凛として生きたといえよう。

 決して広くない庭の草木には初夏の日差しが射し、糸瓜棚にはつるが巻きついている。その先には鶏頭の小さな芽がいくつも萌え出ていた。夏には糸瓜がたわわに実り秋には14、5本の赤い鶏頭が咲くことであろう。土産に糸瓜の絵が描かれた手拭を買い、子規庵を後にする。

 

 言問い通りを一路千駄木の団子坂に向かう。団子坂には森鴎外の旧居「観潮楼」跡地に「森鷗外記念館」がある。鴎外は明治25年にこの地に居を構え、亡くなる大正11年まで30年にわたり品川沖が見えるこの地に住んだという。

 詳しいことはわからないが、鴎外は「舞姫」のモデルとなったエリーゼが明治21年に来日したものの寂しく帰国、その翌年海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚、長男於菟(おと)が生まれるものの妻登志子と離婚。明治35年に判事荒井博臣の長女茂子(志け)と再婚している。

 私はかねがね陸軍軍医総監までのぼり詰めた鴎外がなぜ小説を書いたのか疑問に思っていたが、学芸員の方によるとそれゆえにこそ小説が書けたのではないかという。精神のバランスを取る意味でも良かったのかもしれない。エリーゼの件も含め、人間鴎外が

どのように考えていたのか興味は尽きない。

 鴎外は歴史小説も数多く書いているが、弟の潤三郎が京都で図書館かなにかに勤めていて資料文献の収集に協力したのではないかということであった。鴎外は大正6年に軍医を辞め、帝室博物館総長になったという。奈良の正倉院の点検かなにかで扉の鍵を開けるのは総長である鴎外の役目だったという。また第二次大戦中、長男の於菟が台湾に鴎外の遺品資料を持って行っていて消失をまぬがれ、その資料が同館に所蔵されているとのことである。

 

 藪下の小径を抜け、漱石千駄木の旧居「猫の家」に向かう。

 「猫の家」は日本医科大学の近くにあり、漱石がイギリス留学から帰国後の明治36年から39年まで住んだ家であり、この地で明治38年に「吾輩は猫である」「倫敦塔」、明治39年に「坊ちゃん」「草枕」「野分」などを発表した漱石文学発祥の地であるという。何十年か前に、ロンドンで漱石の下宿先を見に行ったことがあるが、たしか3階の部屋であったように思う。漱石が、この部屋で故国日本と欧米のギャップに思い悩み、孤独にさいなまれていたのかと複雑な思いにとらわれた記憶がある。さて「猫の家」だが、よく見ると石碑の脇の日本医科大学同窓会館の塀の上に猫の像がある。愛らしいものだ。なお、この家は漱石が住む13年程前に観潮楼に移る前に鴎外が1年あまり住んでいたという。

 

 次に向かったのは根津神社である。ここには見過ごしてしまいそうな「文豪の石」がある。何の変哲もない長方形の石だが、鴎外や漱石がこの石に座って思索をめぐらしたという。  

 以下続編。 

 

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