錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

漱石・草枕ゆかりの地を巡る

The Three-Cornered World(Kusamakura) by Soseki Natsume

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 はからずも夏目漱石草枕ゆかりの地を巡ることになった。鹿児島の帰路、熊本に寄り元の会社の同僚E・Y氏が案内してくれることになったのである。

 漱石上熊本から徒歩で峠を越えて行ったようだが、わたしたちは師走も押し迫った12月26日、雨の降る寒い朝、海辺の道をたどり、蜜柑畠を横目に見ながら小天(おあま)向かった。 

 最初にたどり着いたのは高台にある草枕温泉である。早速、湯につかって外を眺めると、空の光を受けて霞たなびくような有明海のはるか遠くに雲仙普賢岳が見える。かつてあの山が噴煙を上げ、火砕流が麓の街を襲ったとは信じられないくらい穏やかに見える。自然の突然の猛威に静かに頭を垂れざるをえない。 なお、笠智衆、今年のNHK大河ドラマの主人公金栗四三はこの辺りの出身らしい。幟が立っていた。 

 Mt. Fugendake over the Ariake sea in hotspring in Oama

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 食事のあと、蜜柑畑のある急斜面を下って前田家別邸に向かう。だが、木の門扉は固く閉ざされ人の気配がない。しかたがないので少しだけ覗いていくことにする。この場所は、草枕のなかで「那古井(なこい)の宿」として次のように描かれている。 

 廊下のような、梯子段のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れて行かれた時は、既に自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。

 現在、この屋敷は、木造三階建ての本館、離れの一部はなくなっているが、当時は段差を生かして、離れと本館、母屋が回廊や渡り廊下で結ばれていて複雑な構造になっていたようだ。漱石はこの屋敷の三層楼上の六畳の離れに起臥(きが)することになる。

 草枕では、主人公の画工の「余」はその宿のお嬢さん、志保田那美(なみ)を見かける。 

 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとし た女が、音もせず、向う二階の縁側を寂然として歩行(あるい)て行く。余は覚えず

鉛筆を落して、鼻から吸いかけ息をぴたりと留めた。

   Nami wearing Japanese Kimono

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 漱石の描く男は屈託が多すぎてやきもきさせられるが、女性は、屈託があっても、どこか凛としたところがあり、また気丈で面白い。那美もそうである。彼女は、余が振袖姿を見たいという話を聞き及んで、わざわざ見せて上げたのである。そしてある晩のことである。画工の余は風呂行く。 

 寒い。手拭下げて、湯壺へ下る。(略)やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照らすものは、ただ一つの小さき釣り洋燈(ランプ)のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。(略)

 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞毧(ビロード)の如く柔かと見えて、足 音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支(さしつかえ)ない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中にある事を覚った。

 そして浮かびあがった白い輪郭は、階段を飛び上がり、ホホホホと鋭く笑う女の声が廊下に響いて遠ざかっていく。  

  Nami in the hotspring

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 The house of Maeda family  in Oama 

 

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 後日、那美は画工の余の部屋を訪れる。

 女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい 頸の色が、あざやかに、抽き出ている。

 那美は画工の余に次のような問いかけをし、それに対して画工の余はこう応える。

 「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。」(略)

 画工の余は、非人情の世界への憧れを説く。なぜか。草枕の冒頭の有名な一節にこうある。

 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 漱石は、とかく人の世は住みにくいから、世俗でない非人情の世界を求めたのであろうか。

 また、画工の余が近くにある鏡の池が画にかくに好(い)い所ですか、と聞いたのに対して那美は次のように言って自分の絵をかいてほしいと頼む。

 「私は近々投げるかも知れません」(略)「私が身を投げて浮いているところをー苦  しんで浮いてるところじゃないんですーやすやすと往生して浮いているところをー綺 麗な画にかいて下さい」

 だが、画工の余は、那美にミレーの水死するオフェリヤの面影を見るが、那美の表情のうちに憐れの念が少しもあらわれておらぬ、そこが物足らぬのである、と那美の絵をかかない。

 そして画工の余は一枚の絵も描けないうちに日々が過ぎ、日露戦争に出征する甥の久一を見送る那美の家族たちと一緒にステイションに出掛ける。久一を乗せた列車が動き出して、那美が偶然にも、名残り惜し気に列車の窓から首を出した、髭だらけの野武士のような離縁した夫の顔を見つけたその刹那、その表情に憐れが浮かぶのである……。

 漱石草枕のなかで憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である、と書いている。そう思うと、最後に気丈な那美がふと見せた憐れが胸を打つ。

 

 午後、漱石と逆コースになるが、いつのまにか雲間から薄日も射すなかを峠の茶屋に向かう。草枕で次のように描かれている。

「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五、六足の草鞋(わらじ)が淋しそうに庇(ひさし)から 吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。 

 峠の茶屋は画工の余が志保田家の使用人、源兵衛と出合ったところである。いまも軒下に草鞋が吊るされているのが可笑しい。茶屋のなかに入ると、年配の女性がいて熊本弁を交えながら親切に話しかけてくれた。年配の女性の話によると、前田別邸は加賀の前田家とは関係なく、前田案山子(かがし)という人が明治維新に際し、自由民権運動の闘士になった人物であるという。那美のモデルは次女の卓(つな)であるという。予約すれば、前田別邸のなかを見学できるとも教えてくださった。

  作家の葉室麟氏が「もうひとつの『草枕』」という日経新聞の記事(2016年1月10日)のなかで前田案山子と卓に触れているので抜粋しよう。

 「明治のころ、熊本県玉名郡小天村に案山子という名の風変りな男がいた。……

 明治維新後、藩の禄を離れると、先祖代々住んできた小天村に戻り、村人とともに生きるという気持ちから名を案山子に改めた。稲を荒らす雀を追い払うという意味なのだろう。案山子は村の子供たちに学校を作り、理不尽な地租改正と戦い、熊本での自由民権運動の闘士となり、やがて帝国議会議員にまでなる。

 案山子には卓という一度、結婚したが出戻った娘がいた。父に薙刀や小太刀を厳しく仕込まれた男勝りであり、かつ近郷にも美貌で知られていた。……

 この別邸に明治30年(1897年)暮、熊本五高の教授が泊まりに来る。夏目漱石である。時に漱石、30歳、卓は29歳。卓と漱石の間にどのような交情があったかはわからない。だが、漱石は小天温泉に滞在した日々を小説に書いた。……

 卓には槌(つち)という妹がいた。槌は大恋愛の末、案山子に反対を押し切って宮崎滔天と結婚していた。……

 卓は3度目の結婚が破綻し、上京すると滔天の紹介で、当時、孫文らが東京で結成した『中国革命同盟会』の事務所に住み込みで働いた。卓は中国の革命家の世話をするだけでなく運動を懸命に助けた。やがて明治45年(1912年)、中国で辛亥革命が成立し、孫文が臨時大統領に就任した。……

 そんな卓は、大正5年(1916年)に漱石の自宅を訪問し、再会を果たす。漱石は卓に『そういう方であったのか、それでは一つ草枕も書き直さなければならぬかな』と言ったという。

 この話は『「草枕」の那美と辛亥革命』の内容を紹介したのだが、もし、漱石と卓の間に秘められた感情があったとすれば、『草枕』は歴史の激動を背景にした恋の物語でもあったということになる」

 葉室麟は、登場人物のモデルになった人々に思いをはせながら読み返すと、もうひとつの草枕の世界が見えてくる、と書いているが、そんな思いにかられる。

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 Tuchi 

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             Tsuna

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 しばらく話していると、峠の茶屋の年配の女性は、裏木戸を開け、崖の上の路に目をやりながら、当時の茶屋はこの上の方にあったのだが、いまは取り壊されて、ここの茶屋は平成元年に建てられたものだという。上の路を行くと漱石も通った石畳の道があるという。石畳の道に行くのにはだいぶ戻るという。

 石畳の道に行くのを諦めると、年配の女性が、芥川賞作家の又吉直樹さんの写真が掲載された小冊子をくれた。石畳の道の素敵な写真である。アップさせていただく。 

 こうして見ると、明治39年(1906)に発表された草枕は、あらためて漱石の漢学の素養をバックにした、穏やかななかにも人間とは何かを問うた、詩情あふれる名作だと思わざるをえない。

 草枕の一句 

 木蓮の花ばかりなる空を瞻(み)る

 

 案内してくれたE・Yさん、妹さん、草枕で鶯が鳴く場面が出てくるが、鳴きだすと鈴のような声で鳴くホオジロの「はっちゃん」、お世話になりどうも有難うございました。

 The tea shop in the mountain pass

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 Tsuna as Nami's model in Kusamakura

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The stone road in the mountain pass

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The Meadow Bunting " Hattu-chan " 

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錦光山宗兵衛(Sobei Kinkozan)の京薩摩(Kyo-SATSUMA)  in 薩摩伝承館

SATSUMA DENSHOKAN

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 2018年12月24日、わたしは、河合りえ子様のブログ「Atelier la Primaverra創造の扉」を拝読して大変興味を持ち、鹿児島空港から一路バスに揺られて指宿(いぶすき)をめざしました。

 指宿白水館(Ibusuki Hakusuikan)に着き、薩摩伝承館の玄関扉が開くと、メインエントランスの中央の

 右手に沈壽官(Chin Jukan)様の「色絵金襴手菊流水図宝珠紐壺」

 左手に錦光山宗兵衛(Kinkozan Sobei)の「錦手雁図花瓶」と「錦手白梅図壺」

が左右対称に飾られていました。

 わたしは正直驚き、かつ感激いたしました。鹿児島の薩摩伝承館といえば、本薩摩の本場の美術館ですから、本薩摩と並んで京薩摩のわが錦光山宗兵衛の作品がメインエントランスに展示されているとは夢にも思っていなかったのです。

 沈壽官様の作品は菊の花が繊細に描かれ、華麗な壺であります。

 

Chin JuKan

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 わたしが、薩摩伝承館のガイドの上奥様に「沈壽官様の作品、素晴らしいですね」と声をかけ、わたしは七代錦光山宗兵衛の孫ですと自己紹介をさせていただきますと、

 そのガイドの方が宗兵衛の「錦手雁図花瓶」の解説をしてくださいました。

 「錦光山宗兵衛のこの作品は、よく見ると、空の上に月を描き、その月の上に雁が飛んでいる姿が描かれており、いわば三重の絵付けが施されているのです。このような作品を作るのは技術的にとても難しく、素晴らしい作品なのです」とおっしゃるのです。

 わたしも目を凝らして見ますと、うっすらと青味を帯びた宵闇のせまる夜空に、はかなげな満月が浮かび、二羽の雁がねぐらに帰るのか、大きく羽を広げて、着地しようとしています。水草のあいだに描かれている黄菊も白菊も盛り付けられたように輝いています。

 わたしはその意匠を見つめて、これは京都粟田焼の繊細でみやびな絵付けの伝統を継承した絵付けではないだろうかという感慨にとらわれました。

 

Kinkozan Sobei

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 次いで、やや左手後方にある宗兵衛の「錦手白梅図壺」を眺めました。白梅の凛とした気品が感じられる一品でありました。その後方には、なんと帯山与兵衛の「色絵黄地桜下梟図花瓶(一対)」が展示されているのでありませんか。

 帯山与兵衛は禁裏御用の京都粟田焼の窯元で、六代錦光山宗兵衛ととても親しい間柄で、ともに京薩摩の製作、輸出開拓に苦労した仲なのです。

 わたしの拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」から引用させていただきますと「『明治5年ニ至リ、錦光山宗兵衛、帯山与兵衛等ハ大ニ販路ヲ海外ニ試ミント欲シ……神戸港ナル外国商館ニ至リ試売ヲナス、之レ京都ニ於ケル海外ニ販路ヲ開キタル始祖トス』(略)帯山与兵衛というのは、粟田で代々禁裏御用を勤めていた窯元であり、瑠璃釉に妙技を発揮してきた陶家である。東京遷都により禁裏御用がなくなり、彼も外国貿易に活路を開くという志を同じくしていたのであろう」という人物なのです。

 

Kinkozan Sobei

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Taizan Yohei

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Kinkozan Sobei

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 Kinkozan Sobei

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 そのあと、館内をめぐっていきますと、京薩摩の展示コーナーもあり、錦光山宗兵衛の初期の京薩摩の典型である瑠璃地金彩に窓を開け、その窓のなかに婦人が描かれた「瑠璃地婦人図花瓶」や竹に鶏が描かれた「瑠璃地色絵金襴手鶏図花瓶」(二階のサツマスタイルのコーナー)などの作品がありました。

 さらに二階に上がると、宗兵衛の「瑠璃地色絵金襴手花見遊興図大花瓶」および「瑠璃地色絵金襴手藤に鳥図花瓶」が展示されておりました。

 わたしのブログの「黎明館『華麗なる薩摩焼』展」のなかで申し上げましたように、これらの作品はすべて瑠璃地金彩で縁取られた窓のなかに花鳥図や人物図が描かれたものであり、本薩摩にはほとんど見られない京薩摩の特徴ではないかと思われます。

 色絵には色絵の良さがあり、焼き締めには焼き締めの良さがあるのですが、上記の宗兵衛のお花見をする子供連れの婦人たちのみやびで華やかな世界は、どこかそれを見る人のこころをなごませてくれるところがあるのではないでしょうか。また藤の花にたわむれる小鳥たちの姿を描いた花瓶、その側面に描かれた鶏、花々も含めてとても端正に描かれていて、わたしが愛しやまない無名の天才絵師素山(Sozan)の筆になるものではないかと思わされます。

 本薩摩や京薩摩において、金彩のきらめきの華麗さだけでなく、こうした繊細な絵ごころのなかにこそ、世界の人々に「SATSUMA」として愛された理由があるのではないでしょうか。

 

Kinkozan Sobei

 

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Kinkozan Sobei

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 薩摩伝承館を出て、白水館のラウンジで美味しいコーヒーをいただきながら、以下のようなことを思いました。

 日本の伝統的な美は「侘び(わび)、寂び(さび)」にあるので、SATSUMAはそれとは少し違うのではないかという意見があります。わたしはそれを否定するつもりはありませんが、ただ安土桃山時代狩野派の絵画のように絢爛豪華な意匠がもてはやされた時代でもありました。また室町時代には冴えた銀のかがやく銀閣寺だけでなく、あたりに光りを放つ金閣寺もありました。京都の料亭・菊乃井の村田吉弘さんも日経新聞TheSTYLEのInterview(2019年1月13日)のなかで「豪華絢爛なバカラにはだれにも分かる絶対美がある。『絶対美があって初めて侘び寂びが成立する。千利休が黄金の茶室を造ったようにね。』とおっしゃっている。日本の美といってもその時代により多様な美があったのではないでしょうか。また侘び、寂の本家ともいうべき千家の歴代の家元のなかにも、侘び、寂のなかに一瞬のきらめきの華やかさを求めた家元もあるやに聞き及びました。興味あるところです。

 なお薩摩伝承館には「SATSUMA」だけでなく、明、清時代の逸品が展示されています。そうしたすべての所蔵品を見ますと、オーナーの下竹原家が二代にわたって収集した賜物であり、その鑑識眼の確かに敬意を表したいと思います。また薩摩伝承館の展示内容をプロデュースしましたのは鹿児島県歴史資料センター黎明館の学芸員・深港恭子様とお聞きしましたが、ガイドの上奥様も含めまして、本薩摩だけでなく京薩摩にも温かいリスペクトのまなざしを注いでいただきまして、京薩摩愛好家のひとりとしまして感謝いたしたく存じます。

 噴煙たなびく桜島を思い浮かべながら、夢の空間のような薩摩伝承館に想いを馳せつつ、筆を置かしていただきます。

 

HAKUSUIKAN

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Sakurajima in Kagoshima prefecture

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma ,Kyoto ceramics that touched the world

 

 

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黎明館「華麗なる薩摩焼」展に錦光山宗兵衛(6代&7代)作品が展示されています。

Meiji  Restoration  for  SATSUMA  Ware

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 2018年12月25日、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている「華麗なる薩摩焼」展に学芸員の深港恭子様にご招待を受け、オープニングレセプションに参加してきました。

 式典のあと、会場に入ってまず感じましたことは、

 豊臣秀吉朝鮮出兵である文禄・慶長の役(1592-1598)の際に島津義弘公が連れ帰ってきた陶工たちが作った、いわゆる火計手(ひばかりで)といわれる白釉茶碗の素朴な美しさでした。

 さらに「薩摩肩衝(かたつき)」といわれる茶入のなんとも言えない微妙な反りの形にこころ動かされました。関ケ原の戦いで敵中突破をした勇将島津義弘公は薩摩に逃げ帰り、江戸には登城しなかったそうですが、義弘公に代って「薩摩肩衝」が徳川家や有力大名に贈られ、その代役をはたしたと思うと、少し可笑しくなりました。

 加えて、島津義弘公はあまりに勇猛で朝鮮でも鬼島津と呼ばれたそうですが、その鬼島津の義弘公は、朝鮮から連れ帰った陶工たちを手厚くもてなし、士分の資格を与え、門を構え、塀をめぐらすことを許す半面、その姓を変えることを禁じ、朝鮮の言葉や習俗を維持することを命じたといいます。薩摩の陶工たちもそれを守り続けて来たといいます。薩摩のその遥かな歴史にも胸に響くものがあります。

 また白薩摩誕生の経緯にもこころ惹かれました。藩命により白色原料の探索が行われ白土を発見、それにより白薩摩に上絵付けをする錦手技法が遅くとも18世紀中頃までには確立し、それらの意匠が徐々に洗練されていって薩摩錦手が完成していき、幕末から明治初期にかけての万博に大好評を博する下地が出来て行くプロセスがとてもわかりやすく展示されています。

 そして明治維新の前年(1867)、日本が初めて参加した第2回パリ万博、明治6年(1873)のウィーン万博、明治9年(1876)フィラデルフィア万博と高い評価を得た薩摩錦手は販路を拡大していき、海外では「SATSUMA」と呼ばれるようになっていきます。本展覧会では第2回パリ万博に出品されて現在ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵の作品が国内で初めて展示されており極めて貴重な機会であり、とても充実した展覧会であると思います。

 こうした数々の展示品のなかで、六代錦光山宗兵衛が明治11年(1878)パリ万博に出品した「錦手花鳥図陶板飾堆朱箪笥」が展示されています。製作年がはっきりした六代宗兵衛の作品が展示されたことを素直に喜びたいと思います。特別許可をいただきまして撮影して参りました写真を添付いたします。また錦光山の「絵図帖」および東京国立博物館の「明治150年」展で展示されていた七代錦光山宗兵衛の「上絵金襴手双鳳文獅子紐飾壺」も展示されておりますが、照明の関係でこの作品の持つきらびやかさが出ていないのが惜しまれます。

 午後から「華麗なる『SATSUMA』の展開ー日本陶磁器の海外輸出の視点からー」という国際シンポジウムが開催され、ヴィクトリア&アルバート博物館のルパート・フォークナー氏がV&Aの歴史とともに日本陶磁器コレクション収集の経緯のお話があり、また九州国立博物館副館長の伊藤嘉章氏から万博時代の日本陶磁器の受容と評価の推移のお話がありました。

 最後に鹿児島大学教授の渡辺芳郎氏から「漢字の薩摩焼とローマ字のSATSUMAとは意味が違う。SATSUMAというのはヨーロッパで名付けられた日本の一群の陶磁器をいう。SATSUMAは素地(土)と絵付けの組み合わせで3つに分類できる。①は素地絵付けとも鹿児島のもので、その代表は沈壽官②は素地は鹿児島、絵付けは他地域で、その代表は藪明山③は素地も絵付けも鹿児島以外の他地域で、その代表は錦光山」という旨のお話がありました。

 このお話に私は非常に感銘を受けました。というのも、京薩摩は鹿児島の本薩摩を真似したものではないかという見方が一部にありますが、パリ万博で好評を博した薩摩焼のことを意識し、刺激を受けたことはあるかもしれませんが、京薩摩の意匠は色絵陶器の完成者・野々村仁清の流れをくむ、京都粟田焼の伝統的な意匠を洗練化しかつ欧米の嗜好を考慮したものであり、似たように見えるのは錦手、金襴手という技法にあると言えるのではないでしょうか。

 私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いてありますが、寛政5年(1793)に三代錦光山喜兵衛が薩摩の陶工である星山仲兵衛、川原芳工に錦手の技法を伝授したといわれています。かなり昔から京都と薩摩はご縁があるのです。

 六代錦光山宗兵衛が開発した京薩摩は、瑠璃地金彩のなかに窓を開け、そこに花鳥図や人物図などを描いているのですが、こうした瑠璃地金彩の窓絵という作品を私は本薩摩ではほとんど見かけておりません。

 このため私は本薩摩と京薩摩は長い歴史のなかでお互いに切磋琢磨した間柄にあるのではないかと考えています。その意味で本薩摩と京薩摩のご縁、関係のお話を伺う予定でありました15代沈壽官様とお会いできなかったことは残念ではございましたが、次の機会を楽しみに待つことにいたします。

 なお、この展覧会の最大の見どころは、15代沈壽官様の曾祖父さま、12代沈壽官様が製作いたしまして島津忠義公が最後のロシア皇帝ニコライ2世に贈り、現在エルミタージュ美術館の所蔵になっております「錦手四君子茶壺形蓋付壺」が120年振りに里帰りして展示されていることであります。そうした記念すべき展覧会におきまして島津家第33代当主・島津忠裕様にご挨拶できたことは望外の喜びであります。またV&Aの主任学芸員のルパート・フォークナー氏にもご挨拶できました。

 時空を超えたご縁、それこそが大切だとこころに沁みた鹿児島への旅でした。

 

 

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world 

 

 

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世界的CGアーティスト・河口洋一郎氏のアートとサイエンスが融合する世界

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 河口洋一郎氏の「国際栄誉賞受賞並びにシーグラフ殿堂入りを祝う会」にご招待を受けて参加してきました。
 河口洋一郎氏は1970年代後半からコンピュータを使い、アルゴリズムを研究してCGの映像作品を作り始め、2000年頃からは深海宇宙生命体の立体造形作品を作っておられるサイエンティスト(20年間東京大学大学院教授、今年から名誉教授)でありアーティストであります。
 サイエンティストとアーティストの組み合わせが奇異に感じられる方に対しては、河口洋一郎氏はレオナルド・ダ・ヴィンチはサイエンティストであると同時に優れたアーティストであったから不思議ではないと言っておられるようです。さらに同氏は「芸術といえど、その時代を表現する時には、その時代の新技術、先端技術を取り込む必要があるのではないでしょうか」とインタビューで答えられていて、その例証として葛飾北斎を挙げて「葛飾北斎は、90歳近くになってからも富士山を描き続けているのです。『富嶽三十六景』というのは、その時代の最先端の版画技術を使って、富士山というテーマを表現し続けた北斎の軌跡なのです。(略)北斎の彫り師や刷り師の技術は当時の世界の最高水準だったわけです」と述べて、アートにおいて常に最先端の技術で作り、作り直していくことの大切さを説いておられる。
 また河口洋一郎氏は、生命体の進化のプロセスを研究して、5億年後の未来に現れる生命体を造形しておられる。それらの生命体が画像に添付してあるように、異形であり、かつ華麗の中にもどこか毒々しいところが含まれています。それは河口洋一郎氏によると、「地球上の生物は、邪悪なものが出てくると、それに対抗してさらに進化をしてきた。その結果、今では毒々しいまでの形や色に進化を遂げている。僕の異形なる芸術生命体は、その毒をも喰らう生々しいまでの強い生命体を表現している。生き残り戦略としての強さだ」と述べておられる。つまり5億年後も生命体がサバイバルしていくためには、生命体の進化のプロセスを研究した結果、そのような異形で毒々しい色彩の生命体にならざるを得ないというのだ。なお、画像のなかにブルーピンクのエギーちゃんがあるが、異形であっても幼時のように丸っこい体形で可愛らしいのは、ほかの惑星に一緒にい連れて行った時に、宇宙人に敵意を示さずにフレンドリーに交流するためだそう^^)。
 そしてそこには河口洋一郎氏の故郷、種子島で子供のころ海で泳いだ時に見たヒトデやサンゴ、巻貝、クラゲなどの海のイメージ、亜熱帯の蝶や鳥、打ち上げられるロケットの先に広がる果てしない宇宙のイメージがあり、深海、宇宙がキーのイメージとなっているようだ。
 さらに私が興味を引かれたのは、河口洋一郎氏がインタビューの中で次のように述べていることです。「現在確立している伝統は凄く重要ですが、その伝統が将来も生き延びるためには、進化のための次の枝葉を持っておく必要があるというのが僕の持論です。日本全国で伝統的なもの作りの存続が危ぶまれていて、後継者が不足している。でも、これらはハリウッドを始め、外国にはないものだからこそ、新たな価値を打ち出せる可能性を秘めている。CGを使った未来型の伝統工芸を提案することで、新しい進化の扉を開けることに貢献できればと思っています」アートとサイエンスが融合することで、なにかブレークスルーできることに繋がることを期待したいものです。
 祝賀会の会場には、オークション会社の日本代表や投資ファンドの代表などが登場して挨拶されたので、どういうことかと思っていたところ、アートギャラリー、WHITESTONEの白石幸生会長のお話ですと、草間彌生さんの作品も15年前には〇〇〇万円程度であったのが現在ではその30~50倍になっているそう。そうなるためには、作品がオークションにかかって相場、つまりマーケット・バリューが定まることが必要、またオークションの際に投資ファンドによる投資が必要ということのようでした。そして最後は名物イベントのSAKE(酒)パーティが開かれ、お開きとなりました。

 

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夏目漱石の世界ー漱石山房を歩く

 

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  小春日和のある日、小石川、神楽坂、早稲田界隈の夏目漱石ゆかりの地を探訪した。
 最初は、漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「門」のなかの「それから」の主人公代助がかつて愛しながらも友人に譲り、いまも想いを寄せる三千代が住んでいた辺りである伝通院を訪れた。もちろんその場所は特定はできなかったが、漱石帝国大学大学院に進学したころ下宿していた法蔵院が近くにあったので立ち寄った。
 そのあと、代助が三千代に会うために通ったであろう安藤坂(この坂の途中に樋口一葉が通った歌塾「萩の舎」があり、一葉と半井桃水の不幸が頭をかすめた)を下り、神楽坂に向かう。神楽坂では、毘沙門天の近くにあり、漱石が文具を買い求めた相馬屋(ここには漱石が「坊ちゃん」の印税を書き留めたものが展示されている)で漱石にあやかるべく原稿用紙を仕入れて、代助が住んでいたであろう地蔵坂の辺りをうろついて一路早稲田エリアに向かう。途中、漱石の妻鏡子の実家(貴族院書記官長・中根重一)のあった辺りを通り抜け、漱石山房に到る。
 漱石山房は前述の前期三部作にくわえて、後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」、随筆集「硝子戸の中」、唯一の自伝的小説「道草」、未完の大作「明暗」など数々の名作を書き上げた地であり、漱石終焉の地でもある。漱石山房のなかには、赤い絨毯の上に紫檀の机が置かれ、近くには瀬戸火鉢、背後には大きな書棚、整然と書籍が山積みされた書斎が当時のまま再現されている。書斎の前に芭蕉木賊(とくさ)などの植栽が植えられていて、執筆に疲れた漱石がそれらを眺めて疲れを癒したのではなかろうか。
 それらの展示物を眺めながら、私はどうして漱石の小説の主人公は職に就かず、家でぶらぶらしている人物が多いのだろうかと思った。さらに言えば、いろいろと思い悩み、優柔不断ですらある。それにひきかえ、漱石の小説に登場する女性はなぜ男より潔く、男前なのだろうか、と思った。
 「それから」の主人公代助には、誠吾という兄がおり「代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている」と書かれている。なぜ代助は職に就かずに「高等遊民」的人生を送っているのだろうか。それは漱石の小説を読むときに私の常々感じている疑問でもあった。その疑問を友人に問うと、ある友人S・Oが「漱石入門」(石原千秋河出文庫)の「セクシュアリティが変容した時代」を読んでいて、彼の主観も交えて次のように語ってくれた。
 友人の言によれば、
漱石が本格的に小説を書き始めた明治後期は、明治政府の修身教育もあって、『男は立身出世、女は良妻賢母』という規範とアイデンティティを求められ、男女のジェンダー(性差)化が最も進んだ時期のようです。そのような時代にあって、漱石の小説に登場する主人公は、漱石自身がそうであるように高等教育を受けながら『立身出世』を捨てた男たちで、『男らしさ』から遠い存在であったということのようです。(例外は『それから』以前に書いた『坊ちゃん』の『おれ』と『三四郎』で彼らはまだ『立身出世』を目指していた男たちでした)一方、自らの意思で男を選ぶことができなかった時代の女性は、男に『主体性』を求める(つまり迫る)ことでしか女としての『主体性』を持つことができなかった結果、潔い『男前』に見えたということではないでしょうか?それもこれも、やはり『長子(長男)相続』と『戸主制度』を基本とする『明治民法』が色濃く影を落としていたのではないかと思います。『明治民法』の『戸主制度』の下では次男坊は長男のスペアで、三男坊以下に至ってはなおさらです。可哀想なのは長男が死なない限り家督相続の権利もない上に家に縛り付けられるか、家をあてがわれても行動を縛られる次男坊ではないでしょうか」
 この友人の説を聞くと、代助が「親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きてる」という言葉がよく理解できます。漱石の主人公は全部が次男ではなく長男もおり、また「門」の主人公宗助のように役所勤めであったり、「行人」の主人公一郎は学者であったりと職に就いている者もいるが、「こころ」の先生のように大半が親の遺した財産で生計を立てているものが多く、その意味で彼らは幸せな「高等遊民」ではなく、自分で主体的に決断できない屈託を抱えた男たちが描かれているのではないだろうか。
 そこには五男三女の末っ子として生まれ、まったくのスペアとして幼くして養育料付きで養子に出され、「道草」によると、その養家で将来の金銭的報酬を期待されて日夜養父・養母の恩を叩きこまれて辟易した漱石の子供の頃の体験、またロンドンに留学した漱石にとって、殖産興業にはやる日本が上滑りな資本主義国家に見えたことが反映しているのかもしれない。
 ところで漱石の小説に登場する女性たちであるが、「彼岸過迄」の千代子は、「高等遊民」の須永市蔵が結婚を申し込んでくれれば結婚してもいいと思っているのだが、煮え切らない態度の須永市蔵が海岸に遊びに行ったときに一緒に来た青年に嫉妬したのに対して「貴方は妾(あたし)を…愛していないんです。つまり貴方は妾と結婚なさる気が…」「唯何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾に対して…」「何故嫉妬なさるんです」「貴方は卑怯です」と言い切る。
 また「行人」の主人公一郎は妻の直の節操を試すために弟の二郎に一晩よそで泊まってくれと頼む。二郎はその気はないが、兄嫁の直と和歌の浦に行き、暴風雨のために一泊することを余儀なくされてしまう。その宿の一室で嵐のために突然電灯が消えてしまう。二郎が「居るんですか」と尋ねると、兄嫁が「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」という。しかし二郎にはそれほど度胸はなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。「姉さん何かしているんですか」「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」と兄嫁は答えた。そして「妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小細工をするのは嫌いよ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」「…嘘だと思うなら、これから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」「大抵の男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。兄嫁の直は、ただいさぎよいだけでなく、肝も据わっている。
 千代子にしろ兄嫁の直にしろ一見自由奔放に見えるが、果たしてそうであろうか。兄嫁の直はあるとき「妾(あたし)ゃ本当に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」と述懐している。あるいは彼女も明治の「戸主制度」の下で自分で主人となるべき男を選べなかった女性なのかもしれない。もしそうだとすると、前述したように、漱石の描く女性たちはもしかすると「戸主制度」の下で「抑圧」されていたがゆえに、男たちに主体性を迫るために、いさぎよい、男前の女性になったのではないだろうか。自由奔放に見える裏には、彼女たちの悲しみ、恨みがこもっているのかもしれない。
 さらに言えば、三四郎」で颯爽と描かれている美禰子のモデルは平塚らいてうであるという。また漱石は、早稲田に移る前に住んでいた西片町の家から数十メートル下の丸山福山町で終焉を迎えた樋口一葉の「たけくらべ」に「樋口一葉全集」が出た際に感動したという(「漱石と歩く東京」北野豊、雪嶺叢書)。兄と父を亡くし戸主となって、裁縫、洗い張りなどで生計をたてながら母、妹の面倒を見ながら明治29年に24歳の若さで亡くなった樋口一葉もある意味「戸主制度」の呪縛に苦しんだ女性でもあった。漱石の脳裏には、明治という時代に新生面を切り拓いていった、こうした女性たちの姿があったとしても不思議ではないであろう。
 最後に早稲田の夏目坂にある漱石誕生の地を訪れた。漱石は明治という時代のなかで苦しみ悩みながらも、その時代を生きた男、女、人間をみずみずしく描いた。そうした漱石の小説を今日も読めることは幸せと言えるのではないだろうか。
 
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粟田焼窯元鍵屋安田の安田浩人様の茶陶展が開催されました。

 

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 粟田焼窯元鍵屋安田の安田浩人様の茶陶展が11月初旬京王百貨店で開催されました。安田浩人様も「京焼の祖でありながら跡絶えていた粟田焼をお茶の道で再興すべく作陶して参りましたが、気が付けば三十年を過ぎました」と招待状に書かれていますが、京焼で最古である粟田焼は、日本芸術院会員で文化勲章を受章した楠部弥弌(くすべやいち)氏が1984年に亡くなり、一旦途絶えていたのですが、安田浩人様が1995年に粟田に開窯し、再び粟田の窯に火をともし粟田焼を再興してこられたのです。

 安田様は日経新聞の「 NIKKEI The STYLE/Life」の記事にも取り上げられ、その記事で「茶わんの唐草模様の絵柄に『LOVE&PEACE』の文字を忍ばせ、大きな反響を呼んだ」と紹介されていますが、安田様は粟田焼のみやびな伝統を継承しながら国際的センスとユーモアのセンスで活躍されているお方であり、またNHKの朝ドラ「半分、青い。」で鈴の絵のお茶碗が使われて評判を得たお方でもあります。

 安田様の茶陶展の素晴らしい数々の作品を見まして、改めて安田様の作品は、京都で磨かれ育まれてきた、上品でみやびな絵付の伝統を引き継いでいると強く感じました。さらに言えば、京薩摩というのは、あくまでも粟田焼の伝統の流れのなかで、いかに欧米のデザインとの融合を図っていくのかという視点から、西洋の嗜好を意識した意匠の絵付がなされたものであり、京焼のなかで「EAST MEETS  WEST」が起り、その意味で、外に開かれた近代的な陶磁器がはじめて誕生したのではないかと思われました。

 安田様は抹茶を点ててくださり、抹茶をいただきながらお話をうかがうと、陶土を扱っていたところが近くお辞めになるということでどうなるかご心配をされていましたが、数年前にも筆の稲本さんが廃業されたとのことで、陶磁器は陶土や筆などすべてARTISAN、職人さんの匠の技で成り立っており、後継者問題を含めて考えさせられました。

  また会場で近代陶磁器史を研究している大学院生を紹介されまして、拙作をボロボロになるまで読み込んでおられて、いたく感銘を受けました。私は将来京焼を研究する方に少しでもお役に立てればという想いで拙作を書きましたので、早くもそうした研究者が現れたことはとても嬉しいことです。また大学院生の方とお話をしていて、できましたら錦光山の作品を年代ごとに少し整理できたらいいなという想いが頭をかすめました。いずれにしましても、後継者問題が難しくなるなかで、こうした若い研究者がいるということは明日への希望を抱かせてくれるもので大変よろこばしく思いました。

 ところで、安田家と錦光山家は浅からぬつながりがあります。どこかの時点で婚姻関係があったということで、遠い親戚関係にあると言われております。ここでは両家にかかわる粟田焼の古いエピソードをご紹介いたしましょう。

  拙作の「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで詳しく触れておりますが、1937年に出された吉田堯文氏の「粟田焼の一話」によりますと、「一体粟田焼には有名な錦光山の山号を持った家が二軒あった。その一つは現在錦光山を姓にせられる錦光山家で、古くは代々多く喜兵衛、後には宗兵衛を名乗って、幕府へ御召茶碗を納めていた名家である。もう一家は現在安田源三郎氏当主の代々源七を名乗った旧家で、共に屋号を鍵屋と云った」と書かれており、安田家と錦光山家は錦光山という山号、鍵屋という屋号も同じであったのです。

  さらに「粟田焼の一話」によりますと、「五条坂粟田焼出入一件」といわれる、粟田と五条坂の大抗争が起った文政六年(1823)に「両家共同でその裏に九袋の窯と仕事場とを造った。挿図はその図面であって、窯は(錦光山)喜兵衛家の地面、仕事場は(安田)源七家の地面に造られた」と記されています(写真参照)。ここではその後の顛末は述べませんが、両家が隣り合って共同で焼物の仕事をしていたことが知れます。

 茶陶展の終了時間を待って、ポーセリン・アーティストの方と大学院生の方を交えて四人で食事をしたのですが、お酒も入って話は弾み、楽しい一時を過ごしました。後でうかがったところによりますと、この日は安田様の誕生日ということで、結果としてお祝いの席になったのであれば幸いです。安田様には、京焼、粟田焼の灯をいつまでも灯し続けていただくためにも、お元気で活躍していただきたいと切にお祈りいたします。

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 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world

 

 

 

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「陶説」に拙作の書評を書いていただきました。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata kiln

A study of Kyo-Satsuma ,Kyoto ceramics that touched the world


 

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 薩摩焼研究家・陶磁史研究家の松村真希子さまが陶磁器の専門誌「陶説」に拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の書評を書いていくださいました。「著者の熱情がここまで溢れ出ている本にはなかなか出合わない!というのが私の最初の感想である。そして少々オーバーな言い方だが、七代目錦光山宗兵衛の孫にあたる著者がこの本を書き上げたことは、奇跡に近い事実かもしれない。京焼の一陶家の歴史がこれほどまでに面白く、江戸末期から大正までを一気に読ませるノンフィクションになるとは誰が想像できたろう」と、過分なお言葉を書いていただき、著者の私には面映ゆい限りではございますが、この場をお借りしまして心より感謝申し上げます。

 拙作が出来上がったのには、松村真希子さまの𠮟咤激励のご指導の賜物なのですが、ここでは2017年春にオックスフォード大学のアシュモレアン博物館を訪れた時のエピソードをご紹介させていただきたいと思います。

 2017年3月28日のその日、私は大失態を演じたのです。アシュモレアン博物館のキュレーターのクレヤさんとの面談時間10時に十分間に合うようにロンドンのパディントン駅8:22発に乗り、オックスフォード駅に9:20着の予定でした。ところが、オックスフォード駅を乗り過ごしてしまい、約束の時間に1時間半も遅れてしまったのです。クレヤさんは少しも嫌な顔をせず出迎えてくれましたが、そのとき、約束の時間に到着してクレヤさんとお話して待っていてくださったのが松村真希子さまなのです。それ以来、松村真希子さまには頭が上がりません。

 カフェテリアでランチしたあと、クレヤさんは展示されている以外の錦光山の作品を含めて研究棟の一室で見てせてくれました。海外の美術館に所蔵されている錦光山作品の貴重な画像なのでこのブログに添付させていただきたいと思います。クレアさんは2020年にアシュモレアン博物館で日本の明治期の工芸展の企画・準備をされている最中でしたが、お忙しい時間を割いて案内してくれました。2020年の同展が成功裡に開催されますことを祈られずいられません。

 私の拙作の口絵にアシュモレアン博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の錦光山作品の画像を掲載するのに、当然のことながら使用料を払います。V&Aの場合、口絵で100ポンド、帯の場合には300ポンドでした。その代わり入場料は寄付という形を取っていました。またV&Aの錦光山作品が一時期、九谷焼と紹介されていましたので、それは何かの間違いでないかと問い合わせしましたところ、キュレーターの方が調査して訂正してくれました。イギリスの博物館には財政面を含めてしっかりした体制ができているのではないかとそのとき痛感いたしました。

 ここでまた話は飛躍するのですが、AIが発達していくと、ますます人間の感性や感動も含めて文化・芸術的なものが求められてくるのではないかと思います。

 日本には

 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭(やまと)しうるわ  し

 と歌で詠まれるような美しい自然に満ちています。眼前にそのような美しい自然があっても、人々はそれが絵画として描かれたときに、眼前の自然に勝るとも劣らない感動を抱くことがあるのではないでしょうか。それは何故でしょうか。

 例えば、東山魁夷の「残照」(添付画像は別のものです)を見るとき、冬の陽射しを浴びて山並みが遠くまで幾重にも重なり合う風景を眺めるときに、その画家が過ごしてきた歳月にふるいをかけられた心象風景に心動かされるのではないでしょうか。東山魁夷の場合には、私は「翳り」がそれでないかと思いました。いずれにしましても、画家の人生が投影された心象風景、そこに文化・芸術の魅力、力があるのではないかと思われます。

 日本経済新聞によりますと、世界の美術市場に占める日本の割合は3%程度だといいます。同紙によると、日本の美術市場を活性化するためには、美術品の資産価値を客観的に評価できる仕組みを作り売買を活発化すること、質の高い展覧会を開き収集家の裾野を広げること、教育のなかで幼い頃から美術館に出かけ一流の作品に親しむ機会を増やすことが大切であるとしています。こうしたことを読みますと、ただ便利なものだけでなく、人の心を動かすもの、そこに日本も参加するためには日本の美術館も含めて国内外に、とりわけ世界にむけて発信していくことが必要になってきていると思われてなりません。

 

 

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